※本稿は、筒井清忠編著『昭和史研究の最前線』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
政財界を震撼させた2つのテロ事件
1932(昭和7)年、政財界の中心人物を斃したテロ事件が相次ぎ発生した。血盟団事件と五・一五事件である。
この年の2月9日、衆議院議員総選挙の応援演説に駒本小学校へ入ろうとした井上準之助(前大蔵大臣)が、小沼正に背後から狙撃されて絶命した。続いて3月5日、三井銀行本店前で団琢磨(三井合名会社理事長)が、菱沼五郎に射殺された。
小沼と菱沼はともに茨城出身の青年で、元大陸浪人の日蓮宗僧侶・井上日召(井上昭)の指導を受けて暗殺に及んだ。日召と彼に率いられた一派は、主任検事木内曽益によって「血盟団」と名付けられ、一連のテロは血盟団事件と呼ばれた。
さらに5月15日、国家改造を目的とする海軍将校・陸軍士官候補生18名が、首相官邸・内大臣官邸・警視庁などを襲撃し、犬養毅(首相)を射殺した。いわゆる五・一五事件である。このとき農本主義を唱える橘孝三郎(水戸愛郷塾長)の指示で、愛郷塾生20名が東京府・埼玉県の変電所施設を襲った。また国家改造運動の指導者の一人、西田税も銃撃されている。
1年後の起訴に大きな反響はなかった
1933年5月、五・一五事件に関する概要が、陸軍・海軍・司法の3省合同で発表され、同月のうちに陸軍・海軍の軍法会議および東京地裁において、被告人の起訴処分が決定した。同事件については、海軍青年将校と、陸軍士官候補生、および民間人はそれぞれ別の法廷で裁かれることになった。
この前後に、各右派団体は「五・一五事件記念運動」と題して、ビラの撒布や神社参拝などの活動を行ったが、すでに事件から1年が過ぎたこともあり、「一般民衆の関心」は「やや薄らぎ」、大きな反響はなかったという。
ただし事件の公表に伴い、世論の一部には変化の兆しも現れた。それは全国各地の軍人や在郷軍人などの反応から始まった。事件概要の公表にあたって、荒木貞夫陸相・大角岑生海相は談話を発表し、それぞれに被告である軍人たちを「純真なる青年」と称え、彼らの心事に「涙なきをえない」などと同情する姿勢を明らかにした。