海軍将校より民間人のほうが重い刑に
海軍側の判決は、11月9日に宣告された。最大刑は禁錮15年で、死刑判決は出なかった。
そして判決文には「その罪責寔に重大」としながらも、被告の「憂国の至情」を諒として禁錮刑を選択したとある。論告から判決までの間に海軍部内は動揺し、軍縮条約に反対する将官らは大角海相に圧力をかけた。その間、世論の高揚が間接的に影響したこともあったであろう。海軍当局は最終的に、被告の「至情」を是認したのである。
民間側および血盟団事件の裁判結果についても触れておこう。民間側公判は、9月26日に東京地方裁判所で開廷し、10月30日に論告求刑が言い渡された。橘孝三郎(愛郷塾長)と川崎長光(西田税を狙撃した血盟団残党)は無期懲役、その他の被告らも懲役7〜15年の求刑であった。翌1934年2月の判決でも、橘は無期刑、川崎は懲役12年とされたほか、ほぼ求刑通りの刑期が言い渡された。
陸海軍の軍法会議に比べて、民間側の量刑は重かったが、それは動機に対する情状酌量よりも、事件の社会的影響や予防警戒を重視したためであった。それでも量刑の決定にあたっては、判決と同月に予定されていた恩赦が考慮されたという。
世論が「テロ犯」の擁護に転回した理由
一方で血盟団事件の公判は1933年6月28日より始まっていたが、他の公判と比べて審理は進まなかった。それは井上日召ら被告と弁護人が、裁判長や判事を「忌避」する申し立てを執拗に行ったためであり、11月末には裁判長が司法官を辞任、事件の審理からも離脱した。
この間、五・一五事件の公判が全国的な運動をもたらし、「法理上の解釈のみに没頭する」のではなく、被告らの動機などの「精神」を重視すべきとする弁護側の主張に、強力な援護をもたらしていた。
後任の裁判長は、被告の心事をことごとく許容して、弁護人との打ち合わせ、検証などの準備の末、翌1934年3月に公判を再開した。論告では井上日召ら4名に死刑が求刑されたが、11月22日の判決では全員が無期懲役以下の有期刑となり、やはり死刑判決は出なかった。判決について裁判長は「恩赦があったことも酌んで」死刑は言い渡さなかったと語っている。この間に、集まった減刑嘆願書は約30万通であった。
これらの事件の公判を通して高揚した国民運動は、1930年代の日本において親欧米派の自由主義的な観念を「特権階級的」と強く批判する、大衆世論の基調が確立した要因の一つになったと考えられる。その背景には、司法から独立した陸海軍の軍法会議、軍とメディアの協力関係があった。
そして被告たちが「捨て石」となって「特権階級」の批判に及んだものと理解されたことは、恐慌に苦しむ人々の共感を強く得て、世論を大きく転回させる契機を作ったのである。