悟りを開いたブッダの「新しい挑戦」

「新しい挑戦」をする、では、そのとき私たちは誰のために何のために時間を使おうと考えているのでしょう。

自分の未来のため……
大切な家族のため……

人それぞれ答えがあると思いますが、ここはしっかりと考えるため、ブッダのエピソードを一つご紹介します。

悟りを開いたブッダはその余韻を楽しみ、世間から離れ一人で静かに坐っておられました。そのとき、ブッダには次のような念が生じていました。

「私が得た悟りの法は、理解しがたい。執着を好み、執着に歓びを感じている人々へこの法を説いたとて、理解されず、ただ私が疲弊してしまうだけではないか」

このように考えられたブッダは人々へ教えを広めることに消極的でした。そのブッダの心の内を知った、世界の主たる梵天は大変焦ります。

「何てことだ! ブッダは法を説くことに無関心のようだ。ああ! このままだと真理の教えは人々に広まることなく、やがて世界は滅んでしまうだろう」

梵天はたちまち天界から飛び立ち、ブッダの前に姿を現しました。

「ブッダよ。どうか法を説いてくれないか。世間には、あなたの教えに耳を傾け、励む者もおりましょう。けれども、あなたが法を説かなければ、その人々も滅んでしまうでしょう」

梵天の必死な願いを知ったブッダは世界を見渡しました。そして、ブッダの教えを求めている人々がいることを目の当たりにすると、心は慈悲で溢れ、法を説くことを決心しました。

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その後については、みなさまもご承知のとおり。ブッダが目覚めた教えは時間や国境を越えて、今日の私たちにまで届いているのです。これは仏教にとっても非常に大きな転機となりました。もし、ブッダが何も語らずにおられたら、今日の「仏教」は存在しなかったでしょう。

いったい誰のために頑張っているのか

ブッダ自身にとっては、理解されないかもしれないことを人々に教えるのは対価性の高い行動ではなかったかもしれません。しかし、梵天から説得され、「自身の悟りを目指し励む日々」から「人々に教えを説く旅」への生き方の転換は、まさに新たな挑戦を覚悟した瞬間だったのです。

自分自身のために頑張ることは、挑戦するモチベーションになりますし、最も純粋な動機です。しかし、私たちは自分のためだけに頑張っているのでしょうか。

ブッダと同列に考えることはできないかもしれませんが、私たちも幸せや喜びを感じたとき、その気持ちをみんなと分かち合いたいという想いが自ずと芽生えると思います。梵天は、小さくても私たちに眠っているそんな心に希望を持っていた、だからこそブッダを説得し、ブッダもまたそれに応じたのです。