そうした現状が厳存するからこそ、「二制度」「自治区」が必要だった。「一つ」ではないので「二制度」でありながら、それでも「一国」にならねばならない。「一国二制度」をめぐって生じる軋轢のメカニズムである。
蒋介石、毛沢東も強権支配にならざるをえなかった
当代の「悪党」習近平も、自意識としては国民の統合・国家の統一という最低限を果たそうとしているだけなのかもしれない。
それが局外、主に西側諸国からは独裁・「皇帝」にみえるところに問題がある。確かに在地の人心に対する配慮は乏しく、民主主義と背馳するのはまちがいない。
しかし当事者にいわせれば、多元的でバラバラな集団・人心を逐一顧慮していては、めざす国民国家の達成は不可能である。
目前ばかりではない。梁啓超以後の中国史でいえば、近代政党だったはずの国民党も共産党も、それまでの「皇帝」システムに最も近い「党=国家」体制・民主集中制を採用して、強権的な支配にならざるをえなかった。
「革命」を標榜し「反帝国主義」を掲げた国共の目標・スローガンからすれば、それは矛盾に映るかもしれない。それでも上に述べてきたいきさつからすれば、歴史にのっとったパフォーマンスでもあった。
蒋介石・毛沢東のような「悪党」が生まれたのも不思議ではない。
中国に「悪党」は欠かせない
中国はこのように古来「帝国」であって、多元的な社会を統治すべく、「悪党」を生み出し続けてきた。そのうえで現在、国民国家を構築すべく模索し、各方面で摩擦を起こしている。
中国が覇権的な「帝国」のようにふるまうのも、習近平が強権的な「皇帝」にみまがうのも、そうした歴史的な所産といってもよい。
ところが欧米諸国および日本は、こうした事情を必ずしも十分に理解できていないようである。強権的な「皇帝」・覇権的な「帝国」といえば、基本的人権・民主主義・国民国家・国際秩序、そして反帝国主義に違背する、つまり「普遍的価値」に反する、という言説が多い。そうした「普遍的価値」は、種々の要件を満たして、はじめて成立する。
地勢的にまとまった一定規模の国土、言語習俗の均質な住民などはその典型であって、そうした要件をそなえた国は、現在の世界をみわたしても、数的に決して多いとはいえない。また誕生してからまだ新しく、長く数えても数百年である。「普遍的価値」というけれども、史上それほど「普遍的」な存在ではない。
19世紀から20世紀にかけて、そうした国民国家が帝国主義を実現して世界を制覇し、国民国家と国際秩序がひとまず世界のスタンダードになった。中国もそんな趨勢のなかで、「帝国」から国民国家への転身をはかっている。それは上に見たとおり、なお未完のまま2022年も半ばを越えた。