憧れと初恋
やがて中学3年生になると、毎朝登校後、ホームルームが始まるまでの間、友人たちと互いに持ち寄った漫画雑誌を貸し借りするのが習慣になった。当時は圧倒的に女子の友だちが多かったため、貸し借りする漫画雑誌は少女漫画が多かったが、あるとき、友人に借りたSF系漫画雑誌の中で、新人漫画家が描いた作品に目がとまる。独特の作風やセンスに強く惹かれ、「デビューしたばかりで、まだそこまでファンがいないから、返事がもらえるかも」と思った向坂さんは、ファンレターを書いた。
すると3カ月後、返事が届く。そこから、長い文通が始まった。
人知れず自分の性自認に深く悩んでいた向坂さんは、「このままいつまでも性別に悩み続けていたら、神経がすり減って病気になってしまう」と思い、高校入学を機に、性自認について考えることを強制的に中止し、「自分は男になりたい女なんだ」と思うように努める。
高校在学時、一度は男子と交際したが、男子に対しても女子に対しても、恋愛感情というものについてピンとくるものがなく、よくわからないままだった。
高校を卒業すると、文通していた漫画家の男性との交際をスタート。
「ハッキリとした告白はどちらからもありません。そもそも私がファンだったので、恋愛感情かどうかは別として、好意があることは伝わっていたと思いますし、相手もそれっぽいことをにおわせてくることがあったので、会った時点で自然とそういう流れになりました」
交際が始まると、「女らしくしなければ、彼に気に入ってもらえない」と自分に言い聞かせ、彼の前では自分がかわいいと思う女の子を演じるようになった。
「彼に対しては、ずっと“彼のようになりたい”という憧れを抱いていました。交際が始まると、“自分が本物の男性になれないなら、彼に自分の男性性を同化させればいい”と考えていました」
しかし18歳の頃。専門学校に入学した初日に、同級生の女の子、上野さん(仮名)に目を奪われた。上野さんは、長いストレートの黒髪にサングラスという出で立ちで、「颯爽としていて、垢抜けた女の子だな」という印象。2人は、たまたま同じエレベーターに乗り合わせたことで友だちになった。
「他の数人の女友達と一緒に過ごすようになりましたが、上野さんに好意は伝えていません。当時はまだ性同一性障害という概念がありませんでしたし、私はすでに漫画家の男性と交際を始めていたので、レズビアンだと思われたこともないと思います。ただ、私がしきりに本人のいないところで、『上野さんかわいいよね。自分が男だったら付き合いたい』と言っていたので、私が彼女を気に入っているということは、周囲も知っていたと思います」
交際していた漫画家の男性にも、「好きな女の子がいる」と伝えていたが、「単に友人として好きなんだろう」と思っていたようだった。