パニック症を発症
専門学校を卒業すると、向坂さんは実家を出て、交際中の漫画家の男性の家の近くで一人暮らしを開始。広告制作会社に就職したが仕事は長続きせず、地方テレビ局のCM制作会社など、さまざまな職を転々とする。
一方、交際中の漫画家の男性は、交際が始まると、「僕は誰とも結婚するつもりはない」と明言。当時女性として生きるつもりだった向坂さんは、「結婚するつもりがないなら遊びなのか?」と失望を感じるとともに、どこかほっとしていた。
ところが22歳のとき、パニック症を発症。外出しようとすると気持ちがすくんで玄関から前に進めず、通院以外、外に出られなくなってしまう。母親に電話で、「何かわからないけど、精神的な病気になったみたいだ」と伝えると、すぐに駆けつけ、病院の付き添いや日常生活の世話などを献身的にしてくれた。
「母は、相手が弱っていたり、自分に対して従順な態度を示したりすると優しく接する人でした。父は、『またひとり増えても養うくらい平気だから、しっかり治療に専念するように言っておけ』と母に話してくれていたようです」
向坂さんが実家へ戻ることになると、それまで「誰とも結婚するつもりはない」と言っていた漫画家の男性が、プロポーズの言葉を口にした。
「彼は分離不安の強い人だったので、おそらく私をつなぎ留める口実として結婚を利用したのだと思います。私は、彼が自分のためにその場しのぎで言ったことは分かっていました。当時の私はパニック症でひどい精神状態だったにもかかわらず、私よりも自分の不安解消を優先する彼が身勝手に思えて、正直プロポーズされてもうれしさも喜びも何の感情も湧きませんでした」
やがて、二次障害として、離人症を併発。最初は「自分が自分でないような感じ」がする程度だったが、徐々に「自分は誰だろう?」という思考が頭から離れなくなる。自分の名前が記号のように感じられ、自分に関することがすべて見知らぬ他人のことのように思えて、だんだん鏡を見ることも、アルバムを開くことも怖くなり、自分の性別を考えることはおろか、自分について考えることさえも避けるようになっていった(以下、後編へ続く)。