見た瞬間「まずそう」と爆笑した料理は…
亡くなる前しばらくは、コロナの感染予防のため、先生と一緒に食事をしていなかった。だからお鍋もできないし、すき焼きもできなかった。先生にまず食べてもらって、その後私たちが食べていた。
早く一緒に食べる日が来てほしいと思っていた。そして、外出をしなくなった先生でも、「おいしいものを食べに行くなら、行こう!」と、重い腰をあげてくれたらいいなぁと思っていた。
コロナ禍では、私たちが作る料理でなんとか我慢してもらっていた。先生に喜んでほしい、と韓国料理や中華料理を取り寄せてみたりもしていた。なのに、先生は見た目重視なところがけっこうあって、ある日、私が作った和風麻婆豆腐を見た瞬間、爆笑しだして一言。
「まずそう」
カチン!!! さすがにムカついた~! ひどい! 心を込めて作った料理を一言バサリとぶった切る先生が私は時々小憎らしかった……。もっと努力しろということなのか……。
「あなたが来てからいろいろと知らない食べ物を食べさせてもらった」と、先生はある時急に私に言った。それは、私こそですよ。先生のおかげでおいしいものをたくさんいただきました。今、強く思うのは、同じものを一緒に食べて「おいしいね」と言い合えるのは何より幸福だということ。そんな瞬間が、先生と私にはたくさんあった。
ついにその日がやってきてしまった
そして、11月9日。先生は静かに息を引き取った。
よくわからない、先生がもう死んじゃったってこと。全然わからない。
先生の急変には医師たちもみんな、驚きとショックを隠せない様子だった。先生、明日になれば寂庵へ帰れるはずだったのに。
病室の隅っこで泣いている私の肩を、看護師さんが抱いてくれた。涙が止まらなくて、状況を把握できていないはずなのに、悲しかった。
「先生、寂庵へ帰ってきたよ」
病院からの車での帰り道は、いつもの道を帰ってもらった。嵯峨野の広沢池の前に来ると先生は必ず、「何百年前も変わらずこの風景だったのよね」と言ったものだった。
先生、寂庵に帰ってきたのわかってるかな? ベッドに運んでもらい、寒がりの先生にすぐ毛布をかけてあげてほしいと葬儀社の方に頼んだ。
近親者の方々に先生が亡くなったことを知らせた。それも本当にごく一部だけに。
それからほどなくして、新聞社から電話がかかってきた。「寂聴先生がお亡くなりになったとある筋から聞きました」と。「いえ、今、入院中で退院の目途はついておりません」。そう答えると、「今朝は元気にされているんですか? 会話はできるんですか?」と何度も聞いてきた。