静かに、放っておいてほしいのに
亡くなったことをきっぱり否定しても何度も聞いてきて、翌朝も電話がかかってきた。「真摯に取材をしてきました。長く付き合ってきて信頼関係があるので、信じていいのですね? 瀬尾さんがそうおっしゃるならば、信じます」とまで言われた。寂庵の門前には記者が数人張り込んでいた。仕事を全うしようとされているのはわかるけれど、その時の私には対応することが本当に嫌でしょうがなかった。
先生が入院していて元気だと言い切る私は嘘つき。嘘をつくのが大嫌いな私は、先生が死んでしまった瞬間から嘘つきになりました。
親族や私たちで話し合って決めたのは、とにかく静かに見送りたいということ。けれどもかなわず、ツイッターの拡散から「先生が死んだ」説が広がり、電話やメール、また寂庵前の張り込みが一気に増えた。私の個人的な携帯にも知らない番号から電話がかかってきて、鳴りやまなかった。
放っておいてほしい。そんな私たちの願いは、誰かの手によってあっけなく潰された。
とても頼りになる編集者の方々の協力により、訃報公表のタイミングやマスコミ対応などを事前に決めていたのに、先生が亡くなったことを公表する日を早めざるをえなかった。
「まなちゃんにメイクしてもらうの、先生好きだったもんね」
それでも、ある新聞社はどこからか確証をつかみ、どこよりも早く報道した。ごく数名にしか伝えていないのに、誰が漏らす? 疑心暗鬼になった。テレビで速報が流れた瞬間、ああ、もうこれで先生が亡くなったことが世間に知れ渡ってしまうんだ、と涙があふれた。私たちの秘密にしておけば、世の中では先生はまだ生きていた。先生はまだ存在していた。
でも、もう先生がいないってこと、この世にいないってことが公になってしまった。そこからまた事務所の電話と私の個人携帯は鳴りやまず、すべて無視するほかなかった。
認めたくないことなのに、認めないといけない。苦しい、お願いだからそっとしておいてほしい。寂庵にいた者はみんな、そう思っていただろう。
そこからバタバタと寂庵で、ごく近親者だけでの通夜と密葬をすませた。先生が生前に「死に化粧はまなほに」と言ってくれていたので、お化粧は私がさせてもらえた。でも本当は、冷たくてかたい先生の顔を泣きながらメイクする日が来るなんて思いもしなかった。
みんなが「まなちゃんにメイクしてもらうの、先生好きだったもんね」と言ってくれた。
先生、悲しいよ。