「本にしてもいいですか?」

そう言ったら、あっさり、「いいよ」。

じゃあ、いろいろな人を取材しなくちゃいけないねとポールを紹介してくれた。また、ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイ、ベルリンに住む関係者も紹介してくれたので、出かけていくしかなかった。そうして、わたしはアルバイトしながらお金をためて取材旅行に出かけた。

ポールに取材OKをもらえた矢先…

1998年、永島さんに初めて会ってから2年が過ぎていた。その間、永島さんが紹介してくれた人たちに会うため、ハワイとロサンゼルスとニューヨークとベルリンに取材に行った。せっせと海外に出かけていれば、永島さんがポール・マッカートニーを紹介してくれるに違いないと信じて、取材を進めていたのである。

すると、永島さんはわたしの様子を見ていたようだった。

1997年の終わりごろ、永島さんから電話をもらった。

「来年の春、ポールがイギリスに来れば会うよって」

もちろん行きますと答えた。ポールのインタビューが取れれば、それ以上のことはない。

年が明けて、永島さんが電話をかけてきた。

「野地さん、どうやらリンダの具合が悪くて、ポールはリンダとアメリカにいるらしい。本人からインタビューは無理だと連絡が入った。だから、忘れてほしい」
「はい。わかりました」

そして、4月。わたしは新聞報道でリンダ・マッカートニーが亡くなったことを知った。

永島さんとの話ではポールの自宅を訪ねる予定だった。リンダにも会えるに違いないから、リンダが書いた料理の本も読んだ。菜食主義の本で、レシピもあったから、2品、作って食べてみた。面会した時の話題になると思ったからだ。

「えー、リンダ夫人、わたしはあなたの本を読んで、なかに載っている料理も作りました」

そう言わなくちゃと思った。

手紙に「会いたい」とは書かなかった

しかし、努力は無になった。

……リンダが亡くなった。ポールにはなかなか会えないだろう、次は時間を置いてジョージ・ハリソンを紹介してもらおうかな。

そう思っていた時だった。

永島さんが「野地さん、ポールに手紙を書いたらどうだ?」と言った。

「キミが直接、手紙を書いたら、ポールは会ってくれるかもしれないよ」

永島さんは呼び屋だ。タレントを口説くのが仕事だ。たとえ奥さんを亡くしたばかりでも、キミが会いたいと手紙を書けば、会ってくれるような気がする。ポールはそういう男だと言った。

アーティストの心情をよくわかっている人なのである。

写真提供=筆者
ポール・マッカートニー日本公演のチケットと、ポールから永島氏にあてた私信