謝罪とは「認識の表明」と「約束の実践」である

ともあれ、以上のことから、謝罪とはある種の認識の表明と約束の実践として、さしあたりは特徴づけることができそうだ。

古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)

すなわち、(1)当該の出来事をいま自分がどういうものとして認識しているのかを表明し、(2)その認識の帰結として、自分がこれから何をするかを約束する(そしてそれを実行していく)、という一連の実践である。

そして、そうだとすれば、子どもに対して謝罪とは何かを教えることとは、たんに「ごめんなさい」と言わせることではなく、〈自分が何をしてしまったのか〉ということ、そして、〈それをしてしまった者として、自分がこれから何をするのか〉ということを、子どもが徐々にでも自分で表現できるように促し、また、大人もそれに応えることだと結論づけられるのではないだろうか。

本稿で確認したのは、謝罪は一方的な行為や儀式ではないということだ。他の多くの実践と同じく、謝罪もまた、多くの場合、言葉が織り込まれた対話の実践にほかならない。そして同様のことは、感謝や賞賛といった、もっと明るい実践についても当てはまるだろう。

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