江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜は晩年、渋沢栄一が進める伝記の編纂に協力した。歴史家の安藤優一郎さんは「慶喜は30年以上の沈黙を破って薩長との戦いを放棄した弁明を試みた。そこには大河ドラマでは描きづらい慶喜の『したたかさ』が確認できる」という――。

朝敵になった徳川慶喜が渋沢栄一に語った弁明

12月26日に最終回を迎えるNHK大河ドラマ『青天を衝け』は、渋沢栄一が徳川慶喜に成り代わる形でその伝記を編纂へんさん・完成させたところで幕を閉じるだろう。

渋沢が私財を投じて慶喜の伝記を編纂・刊行したのは、今の自分があるのは慶喜が取り立ててくれたおかげという信念からであった。慶喜の功績を後世に伝えることで、それまでの恩義に報いたいという強い思いの現れだろう。

戊辰戦争が長引くことなく明治維新が実現したのは、臆病者とそしられても朝廷への恭順を貫いた慶喜の政治姿勢に求められる。朝廷への恭順姿勢を貫いた慶喜こそが、明治維新の最大の功労者であることを伝記を通じて伝えたい。とりわけ戊辰戦争の折に浴びせられた批判に対し、自分が慶喜に代わって反論する意図もあった。

一方、慶喜は渋沢たちの尽力もあって、明治35年(1902)に維新の功臣に対して授けられた爵位のなかでもトップの公爵となったことで、名誉が回復される。

そして、渋沢がプロデュースした伝記編纂事業の場を借りて、過去の政治行動を語りはじめる。慶喜は渋沢が提供してくれた弁明の機会を活用するのである。

本稿では伝記の編纂事業から見えてくる姿を通じて、毀誉褒貶きよほうへん相半ばする慶喜の評価を試みたい。慶喜自身の言葉には、苦しい弁明と同様にしたたかさが感じられる。