もう一つの伝記『昔夢会筆記』に記された質疑応答
『徳川慶喜公伝』と名付けられる伝記の編纂事業がスタートしたのは明治40年(1907)のことである。編纂所は日本橋兜町の渋沢事務所に置かれ、編纂主任となった東京帝国大学教授の萩野由之たち歴史学者たちが通った。
当事者の慶喜に編纂員が直接質問できる場も渋沢により設けられた。編纂員にとっては願ってもない機会だったが、慶喜にとっても何かと物議をかもした政治行動を弁明できる貴重な機会となる。鳥羽伏見の戦いそして大坂城脱出はその象徴と言えよう。
この慶喜を囲む会は昔夢会と称された。名付け親は慶喜だったが、このことにも伝記編纂に対する積極的な姿勢が読み取れる。
昔夢会における慶喜と歴史学者たちのやり取りなどを収めた筆記録は『徳川慶喜公伝』に先立ち、『昔夢会筆記』として印刷され、当時は編纂員のみに配布された。現在は刊行されているため、たやすく読むことができる。
『昔夢会筆記』は筆記録と速記録から成る。当初は質疑応答を編纂員が編集した筆記録のスタイルだったが、途中から速記者が入り質疑応答の具体的な様子が分かる速記録となる。ところが、速記者がいては話しにくいという慶喜の要望に従い、再び筆記録に改められた。
速記録は編集されておらず、質疑応答の様子がリアルに出ている。慶喜が返答に窮する場面もそのまま記録されたため、これはまずいと慶喜は考えたのだろう。
鳥羽伏見の戦い――慶喜は戦意旺盛だった
昔夢会で取り上げられたテーマは実に多岐にわたるが、後世まで批判を浴びることになった鳥羽伏見の戦いに関する質疑応答はたいへん興味深い。
大政奉還により将軍の座を自ら降りた慶喜は、その後、政敵・薩摩藩などが決行したクーデターで樹立された新政府と一触即発の状況に陥る。新政府から排除された慶喜だったが、薩摩藩に対する諸藩の反発を背景に、当時大坂城にいた慶喜が上京すれば議定に任命される運びとなった。