恭順、謹慎を続けた慶喜のしたたかな一面
大坂城を脱出して江戸に戻った慶喜は抗戦することなく、新政府に寛大な処置を願う恭順路線を選択する。だが、幕臣たちの不満は大きく、新政府との決戦を求める意見が噴出する。当時フランスにいた渋沢も同じ思いだった。
恭順路線を堅持した慶喜は謝罪に徹することで、やがて赦免されるが、渋沢は慶喜の考えに納得できなかった。帰国後に対面した際に不満を吐露するが、慶喜に制せられたことで何も言えなくなる。
しかし、慶喜が朝廷への恭順姿勢を貫き、赦免後も謹慎生活を長期にわたり続けたことで、明治政府もその姿勢を諒とした。弁明も一切せず、沈黙を守った姿勢を評価したのだ。その結果、渋沢たちの奔走もあって維新の功労者に授けられる爵位のトップ公爵となった。
一時、朝敵の烙印を押されたものの、長い雌伏の時代を超えて名誉回復を果たしたわけであり、人生の大逆転に成功したのである。慶喜の粘り勝ちと言えようが、並々ならないしたたかさも透けてくる。
そして、慶喜の恩義に報いたい渋沢は、慶喜こそ明治維新の最大の功労者だったという史観を後世に伝えようと伝記編纂を企画する。慶喜は昔夢会という編纂の場を通じて、批判を浴びた自分の政治行動の弁明を試みたが、そこでも同様のしたたかさが確認できるのであった。