「謝罪する」とは何をすることなのか。東京大学大学院の古田徹也准教授は、「謝罪は一方的な行為や儀式ではない。だから『謝ったんだから、もうそれでいいだろう』とは必ずしもならず、場合によってはさらなる謝罪を求められることにもなる」という――。

※本稿は、古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

日本の謝罪会見
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「申し訳ないと思う」だけで果たしてよいのか

謝罪する、ということを子どもに教えるのは難しい。

何か悪さをした子どもを叱りながら、「そういうときは『ごめんなさい』と言うんだよ」と教えることを繰り返す。すると子どもはやがて、「ごめんなさい」と言うことはできるようになる。けれども今度は、場を取り繕おうと「ごめんなさい、ごめんなさい……」と言い続けたり、「もう『ごめんなさい』と言ったよ!」と逆ギレをし始めたりする。

「違う違う! ただ『ごめんなさい』と言えばいいってもんじゃないんだよ」――そう言った後の説明が本当に難しい。謝罪というのは必ずしも、たんに「ごめんなさい」と言ったり頭を下げたりしただけでは終わらない。「すみません」ではすまないのだ。では、どうすれば謝ったことになるのだろうか。

声や態度に出すだけではなく、ちゃんと申し訳ないと思うことだろうか。しかし、「申し訳ないと思う」とはどういうことなのだろうか。そして、思うだけで果たしてよいのだろうか。結局のところ、「謝る」とは何をすることなのだろうか。