なぜよくわかっていないことを「知ってるつもり」になるのか

われわれの頭の中にある「地図」も相当いい加減です。以前勤めていた大学で研究室から食堂までの略図を大学生によく描いてもらったのですが、かなり斜めに交わっている道路は直角になりますし、食堂とその交差場所との間にあるゆがんだ五角形の噴水池も、道路の直角に合わせて、きれいな長方形に描かれるのが常でした。そして、交差が直角でなく池が五角形であることを知るとビックリするのでした。

このようにわれわれの知り方は相当にいい加減です。いい加減なのですが、われわれはそれらのことを「知ってるつもり」でいます。

よくわかっていないにもかかわらず、なぜこのように「知ってるつもり」でいるのでしょうか。それに対する答えは比較的簡単かと思います。われわれの日常が問題の連続で、われわれはその解決を志向しているからなのです。

問題とか解決というと大げさに聞こえますが、日常の行動は問題解決の連続です。どこかで何時かに待ち合わせの約束をすれば、交通機関は何を使うか、所要時間を見積もって何時に家を出なければならないかといった問題を解決しなければなりません。食堂へ行きたいと思えば経路を選択しなければなりません。そして、昼食に何を食べるかも財布や体調と相談しながら決定しなければなりません。ミシンで作品を作製するとなれば、それに合わせた布や、各種の色の糸を用意しなければならないでしょうし、カットのための型紙を用意しなければならないかもしれません。

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スムーズな「問題解決」のために知識は問い直されることなく使われる

このような行動のすべてが問題解決です。次々と問題を解決しながら生活をしているわけですから、それがスムーズに行われるためには、解決の過程で使われる知識をいちいち点検するということにはなりにくいでしょう。知識の点検をしていれば、スムーズな流れにはなりません。

問題解決に使える知識は、解決の道具として使えればいいのであって、特段の問題を生じることがなければ、深く考えることなく、そういうものとして使うのが一般的なのです。

硬貨や紙幣はその金額が大事なのですから、他の硬貨や紙幣と区別でき額面が確認できればいいのであって、その細かいつくりやデザインまで気にすることは通常の生活の中ではまずありません。

ミシンを使うのにその縫うメカニズムはまず考慮されないでしょう。布をカットするのに構造や工夫を気にすることなくハサミを使うでしょう。右利き用の「通常のハサミ」を左手で使うとうまくカットできませんが、なぜそうなのか気にすることなく使っています。頭の中の地図が相当にいい加減でも、日常生活の中で取り立てて問題になるほど違っていなければいいのです。交差点は直角と意識されやすいですし、緩やかなカーブは無視されるのが普通です。目的地にたどり着ける程度のラフさで十分なのです。

われわれは日常生活で問題を次々とスムーズに解決したいわけで、その志向の中で知識は問題を起こさない限り、問い直されることなく使われます。「知ってるつもり」になりやすいのはこういう理由からなのです。