在日中国人留学生から上がった「支那」の使用禁止

中国人の側からは、留日留学生を中心に、1915年の対華21カ条要求によって反日感情が高まって以降、日本の「支那」呼称使用に反省を求める声が起こる。

そして、1930年5月、南京国民政府の外交部が、「支那」の語を使用した日本の公文書の拒否を指示した。すると、同年10月、浜口雄幸内閣が、中国の正式呼称を「中華民国」に変更することを閣議決定する。

さらに翌年1月、国会で幣原臨時総理代理兼外相が、「支那」を一切使わず、「中華民国」「民国」「日華」を使う画期的な演説をした。だが、議場の松岡洋右から非難されると、幣原はその後すぐに軟化して、答弁に「支那」も使用するようになった。

1932年の満洲国建国にともない、外務省は、既存の条約の適応範囲の問題から、国名としては「支那国」や「支那」の使用禁止を促し、それらを地理的呼称に限定しようとした。だが実際には、公文書でも徹底せず、軍部を含めて日本社会一般では、「支那」が広く使われ続けた。

「支那そば」の呼称は、こうした1910~30年代の政治・社会情勢のなかで広まっていった。それは、たとえ多くの人々が、その呼称自体に侮蔑の意味合いを含めず、一般名称として用いただけだったとしても、在日華人や中国の人々からすれば不本意なものであった。

ラーメンの語源は広東風の汁麵という説

他方で、浅草の來々軒(1910年創業)などでは、「ラーメン」という呼び方もされていた。

1928年、東京・上野の「翠松閣」の日本人料理長・吉田誠一が、『美味しく経済的な支那料理の拵え方』(博文館)を刊行し、日本の料理書として初めて「拉麵(ラーメン)」を掲載した。

小麦粉にかん水を加えて手延べする「拉麵」は、明清時代までに山東省で発展し、西方・南方へと広がったと考えられている。

ただし、日本語のラーメンの語源は、この山東式「拉麵」ではなく、広東系の細い汁麵である「柳麵(ラウミン)」であるとする説が有力である。

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さらに、札幌では第2次世界大戦前からいち早く、「支那そば」よりも「ラーメン」という呼称が、一般的になっていたと考えられる。

というのも、王文彩という山東出身の料理人は、シベリアのニコライエフスクで店を開いていたが、1920年の尼港事件に遭って、樺太経由で札幌に逃げてきていた。

1922年、北海道大学の正門前に「竹家」という食堂を開いた大久昌治・タツ夫妻は、留学生の紹介で王文彩に会うと、食堂を「支那料理竹家」とすることにした。

竹家では、糸のように細く切って油で揚げた豚肉を具とする「肉絲麵」が一番人気になった。しかし、客たちはそれらを、「チャンそば」「チャン料理」という中国人を侮蔑する言葉で注文した。

それを見かねた大久タツが考案したというのが、日本の「ラーメン」という呼称の始まりの一つである。

竹家による「ラーメン」の呼称は、麵を「拉(ラー)」(引き延ばす)からではなく、「好了(ハオ・ラー)」(出来上がったよ)という掛け声の「了」から命名されたものであった。