GHQの勧告により「支那そば」は「中華そば」に

さて、日中戦争期、日本では「支那」が、侮蔑的意味・侵略対象としての語感を強くもつようになった。

他方、中国では「支那」こそが、日本の対中蔑視の象徴として敵視されて、戦後を迎えることになった。

戦後の日本では、国民政府の代表団が、「支那」の語の使用禁止を要求した。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、「支那」の語について調査して、「支那」が軽蔑の意をこめて使われてきたことを指摘し、「中華民国」「中国」が相応しい呼称であると勧告した。

さらに、1949年に中華人民共和国が成立すると、新政権に対する「新中国」という呼称が広く用いられるようになり、それに伴って、日本で「支那」の呼称がようやく使われなくなっていった。

そして第2次世界大戦後、アメリカの占領期に、「支那料理」「支那そば」「シナチク」ではなく、「中華料理」「中華そば」「メンマ」という呼称が広まった。

1960年代までには、「そば」というと「中華そば」のことを指すことも多くなり、それに伴って「日本そば」という言い方もできた。なお、メンマは、中国語の「麵碼」(麵のトッピングの意味)に由来するものと考えられる。

中華そば屋の暖簾
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「冷やし中華」はいつ始まったか

また、「冷やし中華」についても見ると、1929年刊の『料理相談』が、「冷蕎麦」としてレシピを記載している。それは、「支那焼きそば」をゆでて、皿盛りし、酢・砂糖を加えた汁で味つけし、氷をかけて提供するものである。

同様のものは、第2次世界大戦前から中国料理店が、「涼拌麵」「涼麵」などとして出していた。例えば、神田・神保町の「揚子江菜館」(1906年創業)は、1932年に「雲を頂く富士山の四季」をイメージして具材を山高に盛り付ける「五色涼拌麵ごもくひやしそば」を考案して、冷やし中華の一つのスタイルとして定着させている。

しかし、「冷やし中華」「冷やし中華そば」という呼称は、戦後にできたものと考えられる。