日本の印刷物に初めて載った「ラーメン」の呼び方

1871年、日清修好条規が結ばれて、日本の開港都市に住む華人は、法的承認と領事による保護を得た。

「南京そば」が、日本の印刷物に初めて登場したのは、1884年、函館の外国人居留地にあった「養和軒」という洋食屋の広告であるとされる。

西洋式食堂で働いていた中国人料理人が、鶏汁そばを作り、それがラーメンの先駆けに位置づけられる。

19世紀末には、横浜の華人たちも、麵を濃厚な肉のスープに入れて食べる料理を作っていて、それも現在のラーメンにつながる。

南京そばが条約港以外の日本各地へと広がったのは、1889年の治外法権と外国人居留地の撤廃、内地雑居の許可からである。

「南京そば」の「南京」は、江戸時代初期の1644年に滅亡した明国初期の首都である。

明は、漢族の最後の王朝であったので、滅亡後にも、儒者をはじめ多くの日本人が敬意や憧憬を抱き続けた。

「南京そば」のほかにも、「南京豆」「南京錠」「南京玉すだれ」「南京虫」「南京町」など、江戸・明治時代に中国から渡来したものの呼称に「南京」が付けられたのは、こうした理由による。

政治的背景により呼称が「支那ソバ」に変化

しかし、1910~20年代頃までに、「南京そば」の呼称が、「支那そば」へと移り変わったと考えられる。

例えば、浅草では、1900年代、日本人が支那そばを売る屋台が進出した。1920年代初めまでには、映画館の後に支那そば屋台に行くのが定番になっていたという。

そして、横浜の南京町の中国料理店に足繁く通っていた税関職員の尾崎貫一が脱サラして、1910年、浅草に來々軒を開いた。浅草の來々軒は有名になり、全国に同名の店ができた。

近代日本でよく用いられた「支那」の呼称は、中国を下に見るようなニュアンスを含むことも多かったので、中国では現在でも使用がはばかられる言葉である。

江戸幕府の公文書では、たいてい「唐」という表現が用いられていたが、19世紀以降の書物では、王朝名による「清」「清国」、総称の「唐」「漢」などのほかに、「支那」という語がしだいに多く用いられるようになった。

明治維新後には、「唐国」「漢土」の語が減って、「清国」「支那」が一般的になった。明治初期の台湾出兵(1874年)や琉球処分(1872~9年)によって、日中関係が悪化した頃、新聞では8割方、「支那」の語が用いられていた。すでに日清戦争以前に、「支那」の語は、日本国民の間で定着していたといえる。

19世紀中頃、開国した清は、しだいに国名として「中国」を使い始め、1898年の戊戌の変法の後には、満族の王朝ではない近代国家の自称として、「中国」を用いる風潮が強まった。

そして1912年、省略すれば「中国」となる「中華民国」が成立する。だがそれにもかかわらず、日本文の公文書では、正式国名として「支那共和国」、その略称として「支那」を用いることが決まるなど、日本では「中国」よりも「支那」の呼称が多用され続けた。