日本人の大好きなラーメンは、当初、なんと呼ばれていたか。慶應義塾大学文学部の岩間一弘教授は「『南京そば』と呼ばれていたようだ。日本の印刷物に初めて登場したのは、1884年、函館の外国人居留地にあった『養和軒』という洋食屋の広告であるとされている」という――。
※本稿は、岩間一弘『中国料理の世界史』(慶応義塾大学出版会)の一部を再編集したものです。
日本で初めてラーメンを食べたのは水戸黄門ではない
日本のラーメンの歴史について見ると、すでに多くの優れた論著が知られている。だが、ラーメンの呼称変化が20世紀の国際政治情勢と深く関わっていることは、これまで十分に整理して論じられていないようである。ここでは、ラーメンの近現代史について、呼称変化の政治的背景を中心に振り返りたい。
その前にまず確認すべきことに、日本で最初にラーメンと餃子を食べたのは、水戸光圀(1628~1701年)とする有名な説がある。水戸家の家臣の間で、光圀の麵好きは有名であり、1665年頃、うどんを自ら作って、明からの亡命儒学者・朱舜水(1600~82年)をもてなし、逆に朱舜水は光圀に、レンコン澱粉(藕粉)を使った平打ち麵と、豚肉の塩漬け(火腿)で作ったスープのラーメンをふるまったとされる。
しかし、この説は、朱舜水が中国麵を直伝し、光圀が僧や家臣にふるまったという「水戸藩ラーメン会」による説を聞いて、著名な食文化史研究者の小菅桂子が書き、それにもとづいて横浜ラーメン博物館が紹介して広まった俗説である。
たしかに、『朱氏談稿』(安積覚著、水戸の徳川博物館に陳列)を見ると、餃子や餛飩(ワンタン)のほかに冷淘(冷し麵)、温麵、索麵などの記載がある。だが、これらはいずれも、今日のラーメンのような麵ではなく、うどんであるという。
そもそも、レンコン澱粉と小麦粉では、手延べの麵を作ることができない。
しかも、明の儒学者である朱舜水に、料理の経験があったとは考えづらい。それゆえ、水戸光圀が、ラーメンの発明者でも、日本へのラーメンの紹介者でもないことは、ほぼ間違いない。