50歳までは「青年期」
50歳という年齢をどのように位置づければいいのか考えてみましょう。日本人の標準的な生き方の規範は、古代中国の思想家・孔子の言行録『論語』の中にある次のような人生訓に由来します。
「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず」
15歳のときに学問に志を立て、30歳で自己の見識を確立し、40歳でものごとの道理を理解して迷いが消え、50歳で自分の生きる意味がわかり、60歳になると他人の意見に素直に耳を傾けられるようになり、70歳になったら自分の心の思うままに行動しても人の道から外れることはなくなると説いています。
日頃はあまり意識していないかもしれませんが、40歳を「不惑」、50歳を「知命」とする孔子の人生訓から「50歳が人生のピークで後半戦の始まり」ととらえる意識が生まれるのでしょう。
私は、平均寿命が80歳を超え(男性81.41歳、女性87.45歳)、世界で最も高齢化が進み、「人生100年時代」が現実のものになろうとしている現代の日本では、孔子のこの人生訓は現実に即していない、年齢を従来の1.6倍程度延ばして考えることが現実的であると考えています。
25歳から50歳までを「青年期」、50歳から65歳までを「壮年期」、65歳から80歳までを「実年期」、80歳から95歳までを「熟年期」、95歳から110歳までを「大人期」、110歳から限界といわれる120歳までを霞を食って生きる(?)「仙人期」とする「新・孔子の人生訓」です(図表1)。
「新・孔子の人生訓」の最大の特徴は、キャリアづくりの期間は「青年期」「壮年期」「実年期」の3期にわたり、25歳から80歳まで、合わせて55年間に及ぶと位置づけたことです。
50歳は、3期にわたるキャリアの2期目の始まりであって、これまでやりたいと思ってもできなかったことに挑戦できるので、むしろチャンスととらえるべきです。その意識改革が必要です。
デジタルの世界では「個の存在」がこれまで以上に問われる
2020年、世界中に蔓延した新型コロナウイルスの感染拡大は、それまで進行していた社会の変化を一気に加速させました。とりわけ顕著に現れたのがデジタルシフト、いわゆるデジタルトランスフォーメーション(DX)の波です。多くの企業でテレワークによるリモート勤務が始まり、私が所属する多摩大学では、昨年5月からオンライン授業が開始されました。
多摩大学のオンライン授業は、出席する学生全員が顔出しする方式を採用し、私が見る画面上には、100~200人の学生の顔と名前が映し出されます。リアルの大教室での授業は、教員1人対学生n人の「1対n」の関係性で進められるのに対し、オンライン授業では、教員とn人の学生それぞれと「1対1」の関係が生まれます。
そのため、教員は顔を見ながら学生を指名して質問することもできれば、学生も教員に質問しやすくなり、それぞれの質問に対する答えを全員が聞いているという具合に、双方に緊張感が生まれます。学生は「個」の存在として参加意識や当事者意識が求められ、教員も「個」の存在として学生と向き合う責任感と当事者意識が求められるからです。
同じような現象は、企業の会議でも生じたのではないでしょうか。対面での会議では、役職の上位者が、発言の内容にかかわらず、強い発言力を持つのに対し、ウェブ会議の時空間では、フラットな関係となるため、発言の内容そのものに参加者の耳目が集まり、役職の上下ではなく、賛同者や共感者の多い少ないが判断の基準となる傾向があります。
民主主義は一人ひとりの「個」としての自立を前提とします。その意味で、ウェブ会議システムは「民主主義の技術」といえるでしょう。社会のデジタル化で時間や空間の制約が縮小することで、「個」の存在がこれまで以上に問われるようになるのです。