運の量は無限である

長い人生において、「最近面白いくらいにツイてるなあ」と感じるような“運の波”に乗る時期がある。

あるいは、思いもよらぬ大きな仕事のチャンスに恵まれた。宝くじで高額当選した。そんな人もうらやむような非常にラッキーな出来事に遭遇そうぐうする人もいる。

そんなとき、人は「一生分の運を使っているのかも」という感慨を抱くものだ。

しかし、ある短い期間にツキが集中したり、思いもかけぬ大きな運に恵まれたりすることをもってして、一生分の運をそこで使ってしまうなんてことはあるのだろうか。

私は、そんなことはない、と思っている。

一生の間に享受する運の絶対量に決まりはないし、それはそもそも鉱物や石油のように有限なものでもない。「運は無限」にあるものだ。

まるで一生分の運を使ってしまったかのような気持ちを抱くのは、「こんな“いいこと”はずっと続くものではない」といった不安の深層心理のためだろう。もっとも、そうした考えは、浮ついた心やおごりに対するいましめになるので、必ずしも悪いものではないが。

運がいいかどうかは生きる姿勢の問題

勢いに乗って一時、世間から熱い注目を集めていたのに、いつの間にか表舞台から消え去っていく人がいる。束の間の栄華に浮かれて、地に足を着けた生き方ができなかったのだろう。こんなケースを目にすれば、やはり「一生分の運」を使い果たしたんだろうという感想が湧いてくるかもしれない。

しかし、頂点を極めてあっという間に去って行ってしまった人たちがなぜ世間から姿を消したかを分析すれば、そこにはちゃんと説明のつく理由があるものだ。

仕事への取り組み方、ものごとの考え方、人との付き合い方、生活の仕方、そうしたものに何か問題が必ずある。傲りから仕事に対して誠実さを失くし、人間関係もだらしなくなっていた。今の状態に安心してしまって変化していく努力をおこたった……。

表舞台から消えてしかるべき相応の理由をいくつも探し当てることができるはずだ。

反対に、このような原因をつくらなければ、彼らはそう簡単に表舞台から去ることはなかった。運やツキのある状態はいつまでも続いていた可能性がある。

そう、運はその人の生きる姿勢や努力の仕方次第でいくらでもやって来るものであり、選ばれる人間でいれば、運に限りはない。

関連記事
堀江貴文「人気もお金も実績も得ている人に共通している"ある能力"」
お金でも才能でもない「天才になれる人、凡人で終わる人」生き方の決定的な違い
論破王ひろゆき「『自分はバカだ』と思える意識の低い凡人ほどラクして幸せに生きられる」
「継続は力なりのウソ」仕事ができる人ほど"無駄な努力"にさっさと終止符を打てるワケ
ブッダの言葉に学ぶ「横柄でえらそうな人」を一瞬で黙らせる"ある質問"