人は自分の背中についているチャンスに気づかない
どのような勝負事においても、勝負中は実にさまざまなものが流れ、動き回っている。プレーヤーの思惑、計算、閃き、そして勝ちや負け、チャンスや運というものがめまぐるしく現れては消え、動き、流れていく。その全体が複雑な流れとなって勝負を運び、最後に「勝ち」と「負け」という形になるわけだ。
勝負の流れにおいては、運やチャンスがそこらじゅうをうろうろしているのに、ほとんどの人はその存在にはっきり気づくことがない。不思議なことだ。
「チャンスをつかみ取る」と意気込む人もいるが、チャンスは自分からつかみにいくと逃げてしまうと相場が決まっている。
チャンスや運というものは、つかんでやろうと気負わなくても、すでに背中にペタッとくっついてくれている。後ろを振り返ればすぐにその姿を見つけることができるのに、ほとんどの人は背中にくっついていることに気づきもせず、活用することもなく負ける方向に進んでしまう。
私が主催する雀鬼会の道場生たちの対局を見ても、「あいつに今、チャンスがくっついているのになあ」と思うことがしばしばある。けれども道場生はそれに気づかないので、チャンスはあっという間に別の人間に移ってしまう。
「気づく感覚」を持て
チャンスや運の存在に気づくには、日々の生活の中でいろいろなことに「気づく感覚」を磨くことだ。
たとえば、通勤や通学で何気なく歩いている道にどんな樹があるか、どんな建物があるか、どんな看板があるかといったことを細かく認識している人はあまりいない。ここにこんな店があって、ここはこんな家が建っているという具合に、ところどころにある目立つものだけを決まったパターンで覚えているだけで、それ以外のものは何度その道を通ろうと意識されないようだ。
だが、細かく気をつけてみれば、発見はいくらでもある。
真剣勝負をしていた現役時代、私はボンヤリしていると見落としそうなものを、対象が街中であれ人間であれ、注意深く見て気づくということを自分に課していた。
人については、「この人のこういう仕草やクセはどんな気持ちを表しているんだろう」などと推察したり、表情から何を考えているのか読み取ったり、さりげない観察を習慣的にしていた。
今挙げたことは気づきの感覚を磨くひとつの方法にすぎない。日常生活は、それこそたくさんの細かいことから成り立っている。意識を向け、そこから気づきを得られることは無数にあるはずだ。
そうやって「気づく感覚」を普段から磨いていれば、チャンスの女神の前髪をみすみすつかみ損なうなどということはしなくなるものだ。