「現代アート」の価値を保証するもの

辞書で現代アートを調べてみると、「現代の美術。多く、20世紀以降、または第2次世界大戦の美術をいう」(小学館/デジタル大辞泉)とあります。この意味では、バスキアも現代アートに含まれると言っていいでしょう。

撮影=西田香織
撮影場所=東京藝術大学

ただ、実は現代アートに明確な定義があるわけではないのです。また、現代に生きるアーティストの作品のすべてを「現代アート」と呼ぶわけでもなく、日本画や油彩画、工芸といった技法材料の制約も存在しません。では何が現代アートになるための要素なのか。私は拙著『アート思考』において、次のように解釈を示しました。

「現代社会の課題に対して、何らかの批評性を持ち、また、美術史の文脈の中で、なにがしかの美的な解釈を行い、社会に意味を提供し、新しい価値をつくり出すこと」

現代アートがこのような意味をもつとして、ピカソやゴッホのように歴史的な文脈から価値が確立されている作品と比べると、現代アートに破格の値がつくのは不思議に思われるかもしれません。しかし、長い時間の経過の中ではピカソやゴッホと同様の価値付けがバスキアなどの現代アートにも行われているのです。

では、まずはじめに現代アートの価値を保証するものは何なのでしょうか。私が思うに、それを可能とするのは、「アーティストの活動」なのです。もっと平たく言えば「命をかけた営みとしてアート活動」が最初にアートの価値を保証するものになるのです。

「なんだ、それは⁉ だれもが一所懸命に仕事をしているよ」「頑張っているのはアーティストだけではない!」それに「たんに頑張ればいいというものでもない」というかもしれません。

しかし、アーティストは、その度合いが常人をはるかに超えているのです。

自分自身の信じ方、自分の賭け方は通常の人間のそれではありません。歴史に残ったアーティストたち、例えばゴッホの生き方を見ればわかりますが、評価の判断基準ですら、通常のものを否定して、自らが探して、作り出しているのです。他人がどんなに批判しても、それを正しいという。その正しさの根拠は、もはや相対的には探すことができません。ゴッホがいいというから。それだけです。

アートの価値を保証するのは「アーティストの活動」ひいては「アーティストの命」と私がいうのはそのためです。なかなかのものです。もし興味をもっていただいた方がいらっしゃれば、アーティストたちに生き方をしらべてみるといいでしょう。自分自身の全存在をかけて妥協せずに制作することが、まずは一つの作品をアートにするのです。

技術の良しあしも、用いる手法も関係なく、アーティストが自分自身に嘘をつかず、生命をかけて生み出した作品であれば、どんなものでも私は観る価値がまずはあると考えます。そしてそれが歴史の中でふるいにかけられることで、強固なアートの価値が醸成されていくのです。というのも、アートが個人の表現であると同時に歴史の中で見られるものだというのは、長い時間の経過を経なければ見えてこない価値があるからです。われわれはフラットにいろいろなものを俯瞰しているつもりでいますが、案外、時代の檻の中に捉えられていて、限られたものしか見えていないものです。

アーティストたちは、作品の社会的な要求から作品を制作しているわけではありません。アーティストはただ自分の思うままに作品を生み出しているだけです。野生の動物がその命を全うするように“自らの命”を全うしようとしたら、アーティストと呼ばれるようになっていた、というのが正しい解釈でしょう。彼らは自分の人生をかけてギリギリのところを探求しているのです。

そうして彼らが生み出した作品に対して価値を見いだし、値をつけるのは受け手に委ねられており、これこそがアートの面白さであるとも言えます。いろいろな人が、それぞれの意見をもっていて、何を言っても許されるのがアートの世界なのです。