アウトサイダー・アートが脚光を浴びた瞬間

アートの歴史を振り返ると、それまで社会から見落とされていたものが、突如として脚光を浴び、交換価値を高める瞬間があります。その一例が、「アウトサイダー・アート」と呼ばれる作品です。既存のアートの「外」という意味でアウトサイダーという言葉が使われているとおり、いわゆる美術教育から生まれたアートとは異なる独学のアートとして、今日へと続いています。

秋元雄史『アート思考』(プレジデント社)

日本において、アウトサイダー・アートという観点で一般に知られているアーティストは、放浪画家としてテレビドラマでも取り上げられた山下清でしょう。山下は幼少期から軽度の知的障がいがあり、八幡学園という養護施設に預けられたのですが、八幡学園が開催した展覧会で、彼の作品が早稲田大学講師の目に留まります。この展覧会は、知的障がい者の作品を組織的に展示する試みとしては、日本で初めてのものでした。

その後、山下清をはじめとした障がい者の制作する作品は反響を呼びます。当時の美術誌を読んでいると、日本美術会の錚々そうそうたる人たちが、山下清らの作品について議論しています。当時の時代背景からして、障がい者は庇護されるべき対象であり、作品が展示されるにしても福祉の意味合いが強かったはずですが、突如として美術界の人々に新たな美としての驚きをもたらしたわけです。「これこそが近代人が求めている心の自由ではないか」といった批評もされました。

さらに世界を見てみると、西洋のシュールレアリスムも精神分析学や心理学の影響を強く受けており、フランスのシュールレアリスト詩人であるアンドレ・ブルトンも精神障がいをもった人の絵に強く影響を受けています。アフリカや中南米の美術など、「いまある世界」とは別の世界(アウトサイド)として、突如注目を集めたアートも数多く存在します。

これらは、西洋美術(ギリシャ・ローマ美術の延長上で歴史的に形成された美術)を中心に考えたときのアウトサイドであり、本来あった場所では、その場所の中心を担うアートなのですが、西洋から見たときにはアウトサイドになるということなのです。

文化というのは、フラットに境界なく広がっていると考えがちですが、文化は本来、内に閉じるものであり、外部を排除するものです。価値を共有する者同士をより強固な絆で結びつける役割をします。美術音楽などはそのための道具でもあり、他者を教化するために発達したメディアです。

興味深いことに西洋の近代美術だけが、外に開くという特質を顕著にもっており、アフリカ美術、あるいはジャポニズムで知られた日本美術などの外の文化を取り込んできました。そのことで、自分化して発展させ、世界化をしてきました。理解できなかったものが理解できるようになるということは、何かを発展させるためにまず必要なことでしょう。アートには、気づきがあるのです。

こうして歴史を振り返ると、アートには、社会において見逃されているところにスポットライトを当てる働きがあります。人種問題など、社会はいくつもの課題を抱えており、そうした課題に社会制度が適応できるまでに時間がかかるものですが、アーティストたちはそうした時代の変化をいち早く感じ取り作品として昇華します。現代アートの作品を通じて世の中を違った視点から眺めてみれば、未来に対するインサイトが生まれるかもしれません。