「アイデアのプラットフォーム」の役割を担う美術館

私たちがアートを目にする場所として、もっとも身近な場所が美術館でしょう。現代アートを展示する美術館では、今の時代を生きるアーティストの作品が展示されています。

秋元雄史さん
撮影=西田香織
撮影場所=東京藝術大学

現代アートは何でもありの世界ですから、アーティストが自らの身体に針を刺して展示をする作品や、生きたままの細胞を展示する作品など、なかには目を見張るような作品もあります。こうした作品について、「展示すべきではない」といった意見が聞かれることもあり、私自身も、当然好き嫌いはあります。しかし、美術館の館長の立場から考えると、美術館とは「アイデアのプラットフォーム」ですから、表現の自由を縛るべきではないと考えます。展示内容によって年齢制限を設けるなど、パブリックな場として一定の配慮があるとしても、美術館で何を展示するかは、基本的にはアーティストやキュレーターに一任すべきです。

もっとも、人々が見たくない、怖いと考えていることでも、人知れずサイエンスやビジネスの世界では進んでいるという現実があります。たとえば遺伝子化学の世界では、「サイエンスで人間をどんどん生み出せばいい」という考えの人もいれば、「サイエンスは命の創造まで踏み込むべきではない」という人もいます。こうした社会の現実を踏まえ、現代アーティストは作品に反映させ、大衆の目にさらします。ここで議論が起きるのは、私は健全なことだと思っています。

これまでも、アートはまるで社会のトリックスターのように振る舞い、社会の内と外を行ったり来たりして、一定の距離をとりながら今の社会を相対化する役割を演じてきました。アートは人間に道徳を語り、ときに悪を語りますから、役立ちつつも、毒にもなるのです。

アートは、「食事をすると空腹が満たされる」といった、分かりやすい結果を得られるものではなく、その価値は説明し難いものです。しかし、価値が相対化し、何を信じるべきか誰にも分からない現代において、アートはあらためて社会の姿や、本質的な価値を考え直すきっかけになると確信しています。

自分自身を見失いがちな現代社会にあって、他人に振り回されずに自己の知見を養っていくということは、大事なことです。ただ、誰がどう見ても普遍的に「正しい」ことが、残念ながら見えづらくなっている世の中です。価値の相対化の罠に陥らずに、自分らしさを作り上げていく上でもアーティスト的な自己を軸にした価値の組織化は必要かもしれません。それを身につけるためにアートに触れるのも楽しいことかもしれません。

(構成=小林義崇)
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