ネット上で誰かを攻撃しているだけでは幸せになれない
人と人とのつながりには、実際に会って、直接言葉を交わした者どうしでなければ共有できない感覚がある。その肌感覚を大事にすることが、互いの信頼感を深めてくれる。どんなにSNSで頻繁にやり取りしようが、ネットを介したコミュニケーションには限界があるだろう。
私が以前から「どんなにネットが発達しようとも、SNSが隆盛を極めようとも、人生の軸足は現実の日常生活に置くべきである」と主張しているのは、いま述べたような理由からだ。ネット上で、まともに対話したこともない相手のことを一方的に攻撃しているだけでは、あなたは絶対に幸せになれない。ましてや今回の一件では、ひとりの人間が自ら命を絶ってしまったのだ。その重大さを本気で認識しなければならない。
ここからは少し余談になるが、先日、リアルなつながりのありがたさをしみじみと実感するような出来事があった。
私は1987年から1992年まで、父の仕事の都合でアメリカに住んでいた。父にはミスター・グリーンという素晴らしい上司がいた。父はグリーンさんのことを尊敬し、グリーンさんも父のことを非常に信頼してくれていた。
そのグリーンさんには娘さんがいるのだが、在米時、私はその娘さんと数回会ったことがある。当時、私は10代半ばの小僧で、彼女は20代半ばの“すてきなお姉さん”という印象だった。彼女も“父親が信頼する部下の息子”ということで私をかわいく思ってくれたのか、会ったときはとても親切にしてくれた。
30年ぶりの会話で再認識する、信頼関係の本質
この連載でも以前書いたように、私は今年8月いっぱいでセミリタイアすることを決めている。その後はビザが取れて入国できれば、しばらくアメリカで暮らす予定だ。この渡米に関連して、30年ぶりに、グリーンさんの娘さんに連絡を取った。
彼女は、私が暮らしたいと考えているシカゴの近郊に住んでいる。それがわかっていたので、「近々、そちらの“ご近所さん”になるかもしれません」「いろいろと相談に乗ってもらえたら嬉しいです」とメールで伝えた。その後、「WhatsApp」という無料通話アプリで会話もしたのだが、彼女は私の渡米をとても歓迎し、「不動産屋巡りとか、私で手伝えることがあれば、何でも遠慮なく頼ってね」と申し出てくれた。本当にありがたいと思うと同時に、「やはり、直接会ったことがある相手とのつながり、相手に抱いた信頼感は、たとえどんなに時間を置いても、距離が離れていても、失われることがないのだな」と痛感した。
信頼関係とは、そういうものなのだと思う。
・ネットを介して一方的に罵詈雑言を投げつけ、自殺にまで追い込むような所業は絶対に許されるものではない。
・開かれた場での発言には、責任が伴う。言いっぱなしで逃げるような態度は、極めて醜悪で、卑怯である。
・SNSで性善説を信じるのは、あまりに楽観的すぎる。
・人生の軸足は、ネットではなくリアルな日常生活に置くべきだ。