共鳴動作が成立しない対話では、信頼関係は生まれない

相手が理解したのか、理解が不十分なのか。意欲的なのか、戸惑いがあるのか。興味があるのか、ないのか。楽しんでいるのか、いないのか。それらの情報を、私たちは、相手の表情や所作、息遣いで知る。自分のそれとの一致具合、あるいはズレ具合で。

所作や息遣いがズレたらダメという話じゃない。ズレることも大事な伝達手段だ。相手の話に戸惑ったら、自然に共鳴動作はズレはじめる。相手はそれを悟って、話のスピードを落としたり、主張をゆるめたり、ときには「何か気になることでもある?」と、意見を聞いてくれたりする。

問題は、そもそも最初から「表情や所作、息遣い」による共鳴動作がない、ということなのだ。

共鳴動作が成立しない対話では、信頼関係は生まれない。

共鳴動作ができない人は、世の中とうまく折り合えないのである。本人は、生きることがつらい。一方で、共鳴動作がうまくできない人の周囲もまた、多大なストレスを抱えることになる。

昔から、周囲と折り合えない=共鳴動作がうまくできない人間はいたのだが、少数派だった。人づきあいは下手だけど、腕がいい職人やエンジニア、クリエイターとして活躍する道を選ぶことが多かったし、周囲も「個性」として容認してきた。

しかし、今、その数がマジョリティになろうかという世代が、着々と大人になりつつある。人事部門では、ほどなく、男女間ストレスよりも、大きな問題になるかもしれない(共鳴動作がうまくできない若者が増えている理由について知りたい方は、拙著『コミュニケーション・ストレス』をお読みいただきたい)。

1996年から「共鳴動作が弱い人たち」が生まれた

1996年、たまごっちが流行はやり、翌年、携帯メールサービスが始まった。

このころから、人類は、「目を合わせない授乳」の道を歩き始めたようである。

2000年代に入り、小学校では、「1年生が手を上げない」ことが話題になったという。1年生といえば、昔は、「1年生の皆さん」「はーい!」、「チューリップ班の皆さん」「はい! はい! はい!」と反応するのが当たり前だったのに。

あるいは、ラジオ体操が覚えられないことも話題になった。「ラジオ体操を覚える」が宿題になる学校も出てきた。従来、ラジオ体操は、覚えるというより、真似をするものだった。目の前の先生のお手本を見れば、なんとなくできるのがラジオ体操だったのに。

どちらも、集団全体の共鳴動作が弱いことを表している。

そしてとうとう、「共鳴しない若者」が社会に出てきた。ここ1〜2年、多くの企業や官公庁で、人事担当者の「新人教育がつらい」というため息が聞こえるようになった。新人たちが反応しない。それほど興味もないテレビ番組を眺めるかのように、そこに座っている。反応しない何十人もを相手に、何かを教えるのは、心が折れそうになる、と。

一人一人を丁寧に見れば、共鳴能力がある若者も過半数いるのである。しかし、集団の共鳴動作は、無反応の人間が約3割を超えると、著しく下がってしまう。周りに反応しない人間がいると、反応できる人間が遠慮してしまうからだ。