「世界のバーンスタイン」が笑ったN響

若者たちが車座になって彼を囲み、彼がおもしろおかしく語るさまざまなエピソードを聞いていました。そのときパッと、バーンスタインと私の目が合った。そして「君はどこから来た? 名前は? 何をしている?」と尋ねられました。ドキドキしながら、ナオト・オオトモと答えると、フィンランド人かと聞かれました。なにか、オットーモのような、フィンランド風の響きに聞こえたのかもしれません。そこで、自分は日本から来た、今はN響の指揮研究員をしていると答えたところ、バーンスタインはこう言ったのです。

「Oh, I know that orchestra. Horrible orchestra!(ああ、そのオーケストラは知っているよ。ひどいオーケストラだ!)」

そして彼は、学生たちを前にこんなふうに説明しました。

「このオーケストラのことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか?”」

バーンスタインを囲んでいる受講生たちは、その話を聞いて皆大笑いです。

プロフィールに書かれない「日本」での実績

N響は、そんなふうに言われるようなオーケストラではない。悔しくて反論しようとしましたが、私が何も言えずにいるうちにその話題は終わり、すでに彼は次の学生との会話を始めていました。

おそらくバーンスタインは、N響と小澤先生のトラブルを耳にしていて、それをもとに、大げさにおもしろおかしく話をしたのだと思います。若き日の小澤先生は、ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者をつとめたのち、1962年にN響と指揮者契約を結ぶも、関係がうまくいかず、指揮をボイコットされるという事態を経験していました。

私はあのとき、バーンスタインと話をしているだけで舞い上がっていたと同時に、その発言に相当ショックを受け、悔しさに震えました。まず、彼が日本のオーケストラに対してそういう認識を持っていたということ、そしてこの話が、日本を知らない外国の若者たちから一笑に付されてしまったということも、ショックでした。

そんなとき、私はあることに気がつきました。

タングルウッド音楽センターには、当時東ドイツでライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務めていたクルト・マズアもゲストで参加し、学生の指導やコンサートを行っていました。

彼はよく日本に来て日本のオーケストラと何度も共演し、1979年には読売日本交響楽団の名誉指揮者に就任していました。しかし彼のプロフィールを改めて見てみると、日本や読響という言葉が、一切書かれていないのです。