「東京は捨てたものではない」日本を主戦場に決めた

日本人がクラシックの音楽家を目指すというと、日本で基本的な勉強をしたあと、欧米に留学し、キャリアを積んで、その実績をもって日本に凱旋する、または日本と海外をまたにかけて活動するというのが、いつの間にか王道のパターンとなっていました。そこにあるのは、クラシックにおいては欧米が一流の現場で、そこで勉強し、活動して認められることこそが最高だという価値観です。これが未来永劫続いていくならば、日本という国や日本の音楽界は、常に二流、三流ということになってしまいます。

しかし、当時の私は多少生意気だったこともあって、日本の音楽界は本当にそれでいいのだろうか、変えていかなくてはならないのではないかと強く思ったのです。

東京は音楽的な環境としては豊かで、演奏会に好きなだけ足を運ぶことができました。さらに、N響の指揮研究員としてあらゆるリハーサルに立ち会うことができる私にとっては、とても恵まれた環境でした。そう考えると、音楽的な刺激を受ける場として、東京は捨てたものではないというのが、そのときの私の認識でした。

「すぐに振れ!」小澤征爾さんに胸ぐらをつかまれる

タングルウッド音楽センターでは、もう一つ印象深い出来事がありました。

講習会の期間中は、毎日、指揮科の授業がありました。ところが私は指揮科の先生との折り合いが悪かったこともあって、だんだんとクラスに出なくなり、1日中、タングルウッドの芝生の上に寝っ転がっているようになっていました。あわせて、前述のような想いがだんだん強くなっていったものですから、さまざまなことに想いを巡らせながら、日本に帰ってがんばるしかないと考えるようになっていました。

あるとき、指揮科の生徒を対象に、翌年の講習会の参加者を決めるオーディションが開催されることになり、私もこれを受けるようにと言われていました。しかし当日、私は大胆不敵にもオーディションをボイコットして、やはり芝生の上で寝っ転がっていた。すると友人があわてて呼びに来て、小澤征爾さんがものすごい剣幕で怒っているから、いますぐ戻ってこいと言うのです。

仕方ないと思って会場に戻ってみると、舞台の下に、他の学生が指揮している様子を見ている小澤先生の姿がありました。近づいていくと、小澤先生に胸ぐらをつかまれました。

「お前、何やっているんだ! すぐに振れ!」

しかし私も意固地になっていたので、絶対にやらないと抵抗したのです。あまりに私が頑ななので先生もあきらめて、もういい、今夜、家に来るようにと言われました。