正直、充実感はなかった
【市来】最初の半年ぐらいはプログラマーみたいな仕事をしていました。大学院のときもプログラミングはやっていたので苦ではなかったのですが、正直、充実感はなかったですね。大きな仕事の一部分をやるのは、手ごたえが感じられないというか……。
【田原】だいぶ悩まれたそうですね。
【市来】長期休暇を取ってミャンマーに旅行をしたら、みなさん本当にのどかで、ストレスなく暮らしているように見えました。僕の周りにはメンタルを病んでしまった人もいたので、ミャンマーみたいなところで暮らすのもいいなと。ただ、ミャンマーもいずれは経済発展して日本のようになるかもしれない。いまミャンマーで暮らすというのは僕の甘えだと考え直しました。
【田原】いろいろ悩んだ揚げ句、地元の熱海を何とかしたいという気持ちになったと。どういうことですか?
【市来】もともと会社に入る前から、いずれは熱海に帰って町を盛り上げたいという思いは持っていました。ミャンマーではなく、身近なところから変えていこうと考えたときに、やっぱり地元からだろうと。
【田原】ただ、すぐに熱海に戻ったわけではなかった。
【市来】IBMでワークスタイル変革プロジェクトが立ち上がって、それに手を挙げて参加しました。オフィスをフリーアドレスにしたり、ITを活用して業務効率化を進めるコンサルティングをする仕事です。その仕事は面白く、とてもやりがいを感じました。ただ、コンサルタントの仕事は、あくまでもお客様が求める方向性を実現すること。面白い仕事だったがゆえに、自分のテーマで当事者としてやりたいという思いも強くなりました。
【田原】それでどうしたの?
【市来】仕事をしながら、大前研一さんが創設した一新塾に通い始めました。大学院などではなく、より実践的に経営を学べるところに入りたいなと思って。
【田原】2007年3月、会社をお辞めになる。退職すれば収入はなくなる。躊躇しなかったんですか?
【市来】あまり損得は考えていなかったですね。とにかく熱海で何かやりたい気持ちが強くて、後先考えずに辞めて帰ってきてしまいました。
【田原】さあ、その熱海です。実は僕が最初に就職したのは日本交通公社(現・JTB)。当時は社員旅行が花盛りで、熱海は日本で一番繁盛していたんじゃないかと思う。それがどうして寂れてしまったのですか?
【市来】いまおっしゃったように、熱海は社員旅行や団体旅行など法人の需要で成り立っていました。しかし、個人旅行が中心の時代になり、海外も含めて気軽に遠くに行けるようになってきた中で、熱海が選ばれなくなっていきました。