「この子は助けなくちゃいけないよね」への疑問
重い障害のある子どもに対して手術が必要ではないかと提案するのは、実は小児外科医ではありません。障害児の主治医である小児神経科の医師です。小児神経科のA医師は県の小児病院に20年勤務し、重度心身障害児を県内で最も多数診た経験のある方です。A医師は、重度心身障害児の生活の質を少しでも改善しようと考え、手術の適応の有無を呼びかけます。すると、関係各科の医師・看護師・コメディカルが集まって会議が開催されます。小児外科からは私の上司二人が出席していましたので、私がその詳細を知るのはのちになってからだったのです。
小児病院をリタイアしたA医師が私に語ってくれます。
「会議では常に子どもの障害の度合いが議論になります。一例一例、手術のメリットとデメリットを検討していくのです。すると、ある医師からこんなセリフが出てくることがあります。『この子は助けなくちゃいけないよね』。この子は助ける? じゃあ、他の子は助けないのですかと私は訊きたくなる」
私はその話を聞いて、医者が生命を線引きしているのではないかと疑問に思いました。
「その可能性はありますね。その医者に向かって、あなたはどこで線を引いているのですかと聞いても、その医者は答えられないでしょう。でも私には分かります。それは、その子とわずかでも意思の疎通が可能か否かです」
「意思が疎通できる子か」で判断する怖さ
私はそう聞かされて大変複雑な気持ちになりました。確かに重度心身障害児の知能には幅があります。顔の表情や瞬きなどで何かを表現しようとしている子もいるし、深い眠りの中にいてほとんど顔に表情のない子もいます。そういった違いに基づいて、子どもが少しでも長く良い生活ができるように手術をするか、それとも見捨てる判断をしてしまうのかが決められるとしたら、かなり怖いことです。
意思の疎通の有無によって命の分かれ目があるとしたら、それは医療的判断というよりも、医師のジャッジに優生思想が潜んでいると言わなければいけないかもしれません。しかしながら、助けることがむしろ残酷という場面が医療の中で存在することもまた否定できません。そういう場面を私は何度も経験してきました。