ボランティアの熱意なしに地方イベントは成り立たない

検証委員会が配布した資料からは、ボランティアの心労に対する考察が薄いように感じられる。今年の朝日新聞社の世論調査において、皇室へ親しみを持つ者は76%にも登っており、およそ日本国民の大多数が天皇を敬愛していることになる。かくいう筆者も、ルソーやマルクスを愛読するので、およそ思想的には左派に該当するはずだが、被災地支援を始めとする現在の皇族の方々のご尽力を考えると頭の下がることばかりで、自然な尊敬の念を持つ。

こういった社会状況の下で、昭和天皇の写真を焼くように見える作品は大衆の支持を受けにくく、大きな非難を浴びることになる。作家たちは覚悟があるから受け止めるであろうが、ボランティアの方々はわだかまりや逡巡を感じてしまうかもしれない。実際、多くの地方イベントはボランティアの熱意によって支えられており、彼らなくしては成立し得ない。今回、議論となった展示の検証に際し、ボランティアの心情に配慮した言説は非常に少ないように思う。これは、検証委員会も主として美術館の論理で問題をとらえ、観光イベントとして考えていないからではないだろうか。

さらに検証委員会では論点になっていないが、アートマネジメント(芸術文化活動に対するマネジメント)の観点からするとかなり危ない運営だったと思われる箇所が数点ある。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。碓井ゆい「ガラスの中で」2019

直前の「ジェンダー枠」で、女性作家の評価が変わる恐れ

大型の芸術祭は、数年前からキュレーターとアーティストと交渉を始め、口約束の信頼関係で話が進んでいくことがままあるが、今回、昨年の後半あたりから突然ジェンダーの視点が入り込み、直前になってアーティストの差し替えが行われたことは監督自身が認めている(弁護士ドットコムニュース<芸大は女性が多いのに、業界は男性優位…津田大介さんがあいちトリエンナーレで「荒療治」>2019年4月3日)。

あいちトリエンナーレ実行委員会事務局 は「変更があったのはアーティスト検討段階であり、具体的な作品の発注の段階でアーティスト差し替えを行ったという事実はありません」としているが、発注を期待していた作家たちにとっては、「事実上」キャンセルされたことになり、これまで培ってきたアート界におけるあいちトリエンナーレの信用を損なうことになる。

「表現の不自由展・その後」の件で、海外の作家を中心に“検閲”と感じたアーティストは多数おり、次回からの海外アーティストの招待は難しいものになるであろうが、今回の事件がなくても直前の作家の入れ替えがあったことは知られてしまっているので、来期がどうなるかは不透明だ。

さらにジェンダー枠の設定が時間的にかなり切迫した時期であったため、「あいちトリエンナーレ参加作家」の格付けと意味付けが変容してしまった。現代アートの場合「あいトリに出た作家」「横トリ(横浜トリエンナーレ)にでた作家」などと言った業績で、作品の値決めの参考にされることがしばしばあるのだが、今回のジェンダー枠の設定はこうした評価基準を根底から壊すことになる。美術業界のギルドは非常に強固で、アートマネジメント学会で10年以上活動している私でも、いまだ核心部分にたどり着いていない。

ジェンダーへの配慮は当然必要なのだが、クオータ(割り当て)制にしてしまうと、当初から実力で参加が決まっていた女性作家が、周囲から勝手にジェンダー枠だと思われてしまい、作品の評価や価格が低下しかねない。ジェンダーを考える場合、業界の慣行やしきたりを踏まえなければ、女性アーティストに迷惑がかかることがある。こうした部分への配慮があったのかは別途検証すべきだろう。(続く)

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