美術館のある公園一帯は「芸術と科学の杜」というが…

名古屋は紛れもない工業都市であり、今回の芸術祭の会場の一つである豊田に至っては、企業城下町と言って良い。このような街で芸術祭を開くことは特別な意味を持っている。

まず、名古屋市美術館について考えてみよう。美術館のある白川公園一帯は「芸術と科学の杜」と位置づけられており、名古屋市科学館も同じ敷地内にあるのだが、その規模は科学館のほうが美術館よりはるかに大きい。つまり「芸術と科学の杜」といっても、現実に重点が置かれているのは科学である。

撮影=井出明
名古屋市科学館の全景。

ダークツーリズムは科学技術文明論も扱うため、私は名古屋市内の科学技術系博物館を複数回訪れたことがある。その中でも、名古屋市科学館は圧巻で、6階建ての建物の中には、理学系の理論的な展示から工学系の産業応用に至るまで、子供が楽しめるアトラクションが所狭しと並べられている。

しかし、同時に問題も感じた。科学技術が人類に対してどのような厄災をもたらし、また潜在的にいかに大きな危険性を有しているという点について全く言及がないのだ。これは上野の国立科学博物館も似ていて、展示の軸はあくまでも「もとより頭脳優秀な日本人が、近代以降に西洋から知識を輸入し、科学技術大国を作った」であり、そこでは原爆の悲劇や水俣病の悲惨さは語られない。

近代(モダン)の科学文明を手放しで礼賛する科学技術者に対して、あいちトリエンナーレに集められた現代アートはポストモダンの視点から批判の目を向ける。

「産業立県」である愛知の人々に警鐘を鳴らす

たとえば名古屋市美術館で展示されている青木美紅の「1996」は、人工授精によって生まれてきた自身のアイデンティティを問い直す秀作だ。碓井ゆいによる「ガラスの中で」は、生命の神秘の中にバイオ技術が入り込みつつある現状への違和感を表現しているようだった。これらの作品が展示されている美術館の目と鼻の先の科学館には、バイオ関係を含めた生命工学を称賛する説明がある。

Photo: Ito Tetsuo
あいちトリエンナーレ2019の展示風景。ジェームズ・ブライドル《ドローンの影》2019

メイン会場の愛知県芸術文化センターでは、こうした「科学技術への懐疑」を扱った作品はかなりの数に上る。日本にいるとドローンという新しい技術は、空中写真を撮ったり、農薬を散布したりするために使われる民需品だと思われがちだが、世界的にはサウジアラビアの油田破壊にも使われたように、将来が嘱望される軍事技術として認識されている。

ジェームズ・ブライドルは「ドローンの影」という作品で、科学技術文明が進んでいく漠然とした不安感を表現した。ブライドルは高等教育を受けた科学者であり、高度科学技術社会が有する潜在的な危険性を大衆に得心させようとする試みは見事に成功している。これは「産業立県」である愛知の人々に警鐘を鳴らす役割を担ったともいえるだろう。