「俯瞰図」がないので、全体を理解するのが難しい
また注文をつけると、すべての作品が展示されていたかどうかに関わらず、ビジターが鑑賞するための「俯瞰図」を用意してほしかったと思う。筆者はダークツーリズムという視点から自分なりに作品を分類して全体を理解できるが、そうでない場合、一つひとつの作品の素晴らしさについては得心がいったとしても、あいちトリエンナーレ全体を理解するのは難しいだろう。
芸術監督の現代世界への理解が提示され、芸術祭のそれぞれの作品が群として緩やかに区分された後に、作品相互の関係性などが理解できるような補助的な工夫は欲しいところであり、展示の全体概念を理解するためのディバイスとして「俯瞰図」があれば、鑑賞者の手助けとなったと思われる。
原因は「芸術監督の準備不足とキュレーションのミス」
今回のあいちトリエンナーレでは、「表現の不自由展・その後」の展示中止ばかりに目が行きがちであるが、問題の根はもっと深く広いところにあったのではないだろうか。
もっとも大きな議論となったのは大浦信行「遠近を抱えて」およびキム・ソギョンとキム・ウンソン「平和の少女像」の2作品についてだったが、上述したような19世紀末以降の帝国主義の拡大と植民地の苦難という文脈があれば、公的な美術展で展示できる可能性はあるはずだ。
これは、「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会 第2回会議」の配布資料「これまでの調査からわかったこと」で、「不自由展は“情の時代”というテーマに沿ったものであり、またその規模が限定的であることにも照らし、その企画自体が不適切であったとはいえない」(21ページ)と評価されている通りである。
その一方、検証委員会コメントには「芸術監督は、少なくとも企画素案の当初からそのことの是非について、美術館長や会長and/or知事に相談すべきだった」と記されており、さらに「専門のキュレーターの見立てによると、専門キュレーターが質の高い企画をした場合には今回の4‐5倍の予算8倍の面積を要したはずとのこと」(50ページ)という記述があるように、客観的には芸術監督の準備不足とキュレーションのミスに失敗の原因が集約されるようである。
ただ、この「準備不足」という言葉で全てを済ませてしまうのは、失敗の教訓を次世代につなぐというダークツーリズムの趣旨にもとり、あまりに不十分な記憶の承継と言わざるを得ないため、観光学者の立場から少々付け足しておきたい。