表舞台から姿を消した鄧小平
1989年の天安門事件の後、外務省で中国課長をしていたころ、鄧小平が一時表舞台から姿を消していて、その動向に関心が集まっていた。天安門事件は、改革開放政策をやったから起こったという中国国内の批判が強まり、鄧小平はその責任を取って表舞台から去った、という説もささやかれていた。
そのとき上海の蓮見義博総領事から面白い電報が届いた。中国の知識人が「鄧小平は“韜晦(とうかい)”しているだけで、いずれ表に出てくる」と解説してくれたというものだった。これを読んで鄧小平は必ず復活すると確信した。まさに有名な“韜光養晦(自分の本心や才能、地位などを包み隠すこと)”そのものだったのだ。
依然として根深い「相互不信」
中国は、1980年代の終わりから90年代にかけて、天安門事件とソ連の危機の時代を鄧小平の知恵に助けられて生きのびることができた。今考えれば、この時代は中国共産党にとり、いかに激動の時代であったかが分かる。中国共産党はソ連や東欧の共産政権の崩壊を徹底的に分析し、その轍を踏まないことを肝に銘じた。鄧小平の“韜光養晦、有所作為(為すべきを為して業績を上げる)”の外交政策がその“宝刀”だった。
この方針に従い、中国は欧米の警戒心を呼び覚まさないように、細心の注意を払いながら外国との関係を進めていった。ソ連が崩壊し、西側民主主義が勝利したという自信を背景に、欧米も余裕をもって中国を温かく見ていた。しかし2012年以来の中国の変化が西側の対中観を大きく修正した。17年のアメリカの「国家安全保障戦略」において、中国とロシアが並んでアメリカの主要な敵対国と記載されたことが、そのことを如実に示している。しかも中国の方が先に書かれている。
日本においても中国が本気で今の国際的な仕組みを守ろうとしているのかについて確信をもてないでいる。中国が、現在の欧米を源流とする理念ないし価値観に基づく国際的な仕組みを支えるはずはないという強い疑念があるからだ。
このように中国をめぐる国際環境が大きく変化する中で、相手の意図に対する相互不信は依然として根深い。根気強い対話を通じ、あるいは実際の行動の積み重ねを通じて徐々に相互不信を解消させていくしか方法はない。
元中国大使
1946年福岡県生まれ。日本日中関係学会会長、宮本アジア研究所代表、日中友好会館会長代行。69年外務省入省。欧亜局ソヴィエト連邦課首席事務官、国際連合局軍縮課長、アジア局中国課長、軍備管理・科学審議官、駐アトランタ日本国総領事、駐ミャンマー連邦日本国特命全権大使、沖縄担当大使など歴任したのち、2006-10年、駐中華人民共和国日本国特命全権大使。10年に退官。著書に『これから、中国とどう付き合うか』(日本経済新聞出版社)、『激変ミャンマーを読み解く』(東京書籍)、『習近平の中国』(新潮新書)、『強硬外交を反省する中国』(PHP新書)などがある。