中国学生らの民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件では、その直後から中国を脱出しようと北京の空港に日本人を含めた外国人らがあふれ返った。そんな人々を救ったのは、ANA(全日本空輸)社員の臨機応変な対応だった。北海道大学大学院の城山英巳教授の著書『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)より、一部を紹介しよう――。
空港パブリック チェック
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天安門事件直後の中国からの脱出の記録をまとめたANA社員の手記

ANA北京支店営業マネージャー、尾坂雅康は、当時の「邦人脱出オペレーション」を「日記」に残しており、『天安門事件 北京動乱の60日』という手記にまとめた。貴重な民間人の記録である。

武力弾圧から2日が経った6月6日。帰国便を求める北京在留邦人からの予約が集中した。

邦人にとって最大の問題は、市内から車で約40分かかる北京首都国際空港への「足」がないことだった。タクシーは止まり、ガソリンスタンドも閉鎖した。通常タクシーなら50元で行くが、足元を見て10倍の500元を要求する白タクも登場した。リヤカーを自転車で引くリキシャに乗って3~4時間をかけて空港に向かう邦人もいた。

発券ができないANAは「空港に行く」よう勧告

中国において当時、日本の航空会社で自社の航空券を発券できるのはJAL一社だけで、1987年4月に北京便を就航した後発のANAは、日中航空協定に基づき予約しかできなかった。ANAは航空券を独自に発行できず、北京支店では乗客に対して航空券の予約証明を手渡し、客は、航空局と国営航空会社の機能を持つ国家機関「中国民用航空総局」(中国民航)のカウンターか、北京空港の中国民航カウンターで予約証明を提示して料金を支払ってようやく航空券を購入できた。

尾坂によると、緊急事態に際し、そもそも発券が不可能なANAでは客からの問い合わせに対して「一刻も早く空港に行く」よう勧めた。

JALとANAは6日、定期便に加え、夜に臨時便を運航し、ANAでは成田行きの定期便に277人、羽田行きの臨時便には317人が搭乗した。