学生や市民の民主化運動が武力弾圧された1989年の天安門事件で中国は世界から制裁を受け、日本も90年からの第3次円借款供与を凍結した。だが、中国は円借款で利益を生むであろう日本の財界人を懐柔し、円借款の凍結解除を政府に歩み寄らせた。北海道大学大学院の城山英巳教授の著書『天安門ファイル 極秘記録から読み解く日本外交の「失敗」』(中央公論新社)より、一部を紹介しよう――。
北京で行われた国慶節のパレードで、天安門前を行進する故鄧小平氏の肖像画=1999年10月1日、中国・北京
写真=AFP/時事通信フォト
北京で行われた国慶節のパレードで、天安門前を行進する故鄧小平氏の肖像画=1999年10月1日、中国・北京

鄧小平による日本の財界人グループへの「特別視」

天安門事件後の1989年11月6~9日、中国共産党第13期中央委員会第5回全体会議(5中全会)が開催され、最高実力者・鄧小平が最後まで手離さなかった党中央軍事委員会主席のポストからも退き、江沢民総書記に譲った。

共産党指導部は、5中全会閉幕当日の9日夜、訪中した日中経済協会ミッション(団長・河合良一会長〔小松製作所会長〕、顧問・斎藤英四郎経団連会長〔新日鉄名誉会長〕)に対して、田紀雲副総理が会見と歓迎宴に応じるなど、対日重視を示した。5中全会は午後5時に閉幕し、6時半から会見に応じる厚遇で迎えた(橋本恕駐中大使発外相宛公電「日中経済協会訪中ミッション[田紀雲副総理との会見]」1989年11月10日)

鄧小平は、11月13日、日中経協ミッションとの会談に応じ、「政治生活に正式に別れを告げた。したがって、皆さんのような大事な客とお会いするのはこれが最後の機会になると思う」と述べた(橋本大使発外相宛公電「日中経協訪中ミッション[鄧小平氏との会見]」1989年11月13日)。鄧小平は明らかに日本を特別視した。

しかし日中経協ミッションとの会見で、引退した鄧小平は意気揚々だった。「最も大きな問題」の「第一」として次のように述べた。

「(7月に開かれた)サミット(先進7カ国首脳会議)でいわれた人権ということについてだ。人権と国権とがあり、〔中略〕人権が重いのか、国権が重いのかといえば、私の考えでは国権は独立、主権、尊厳という点に関わるものであり、これが全てを圧倒すると思う」(前掲「日中経協訪中ミッション[鄧小平氏との会見]」)

水面下で接触していたアメリカと中国

天安門事件を受けて「対立激化」したように見られていた米中両国は裏で手を握っていた。1972年に訪中して米中接近を演出したニクソン元大統領とキッシンジャー元国務長官もほぼ同時期に訪中し、鄧小平はそれぞれ10月31日と11月10日に会談している。

斎藤英四郎は鄧小平にニクソンとの会談内容を尋ねたところ、鄧小平は「中国は被害者なのであって、米国が被害者なのではない」と述べ、米国の干渉は許さないという従来の強気の姿勢を見せたが、柔軟になっていた。

「彼(ニクソン)は理解していると思う。米中双方が情熱を持って当たれば、この数カ月の米中間のわだかまりはピリオドを打つことができるだろう」