※本稿は、宮本雄二著『日中の失敗の本質 新時代の中国との付き合い方』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。
中国への過重な制裁は受け入れられないとした日本政府
1989年6月4日の天安門事件は、私が情報調査局(現・国際情報統括官組織)企画課長に就任した直後に起こった。正確に言うと、その前日の3日に宇野宗佑外相が首相に就任し、私も宇野外相秘書官の職を解かれ、この新ポストに就いていた。
このポストは、G7サミットの政治部門を担当する。日本側の事務方交渉チームは、國廣道彦外務審議官、山下新太郎情報調査局長、小倉和夫経済局審議官、そして私だった。山下局長を除く3人は、73年に私が中国課勤務を始めたときの、課長、首席事務官、そして平事務官の関係にある。この“上下関係”はたちどころに復活した。
サミットのホスト国はフランスであり、ミッテラン大統領はフランス革命200周年だというので、天安門事件を人権問題として大々的に扱う方針を打ち出した。これに他の西側諸国も同調した。
日本政府は、その観点から中国を厳しく批判すること自体には反対しなかった。深刻な人権問題であることに間違いはないからだ。しかし中国に対する過重な制裁は、せっかく世界に扉を開いてきた中国を再び閉じこもらせ、西側に対する敵愾心をあおることになるので受け入れられないという立場をとった。
最後は、アメリカのブッシュ大統領(シニア)の支持も得てG7による対中制裁の内容は緩和された。ブッシュがアメリカの在中国連絡事務所の2代目所長、つまり実質の駐中国大使だったことが、中国に対する理解も日本側と近く、似た立場をとらせたのだろう。
「対中経済協力」の再開が不可能な状況
天安門事件は中国国内に大きな衝撃を与えていた。鄧小平の始めた新政策に対する批判も強まっていた。国を開き国内を改革する政策が、西側の価値観に同調し共産党に反対する勢力を増長させたと、厳しく批判されていた。日本政府は中国の改革開放政策を持続させることにより、中国と国際社会の関係を維持するべきだと判断した。改革開放政策が失敗し、世界に対し敵対的な毛沢東時代に戻らせるわけにはいかないからだ。そこで対中経済協力の再開問題が急浮上してきた。90年、私は中国課長になった。上司は谷野作太郎アジア局長だった。
北京の橋本恕大使からは「対中経済協力は中国に対する明確な約束事であり、直ちに実施すべきである」という強い意見をもらっていた。橋本大使は、72年、日中国交正常化のときの中国課長であり、田中角栄首相、大平正芳外相の厚い信任を得ていた。中国側の信頼も厚かった。だが日本国内の対中批判は厳しく、欧米の動向もあり、対中経済協力の再開は不可能な状況だった。