私を見る北朝鮮の人々の「刺すような視線」
だが、北朝鮮とは国交がない。入ったまま出てこられないという可能性はある。そこで、親しくしてもらっていた河野洋平新自由クラブ代表(当時)と中曽根康弘首相(当時)の秘書に、北朝鮮に行くこと、6月を過ぎても帰国しなかったときは、元木という人間が戻らない、どうしているのかを問い合わせてほしいと頼みに行った。
万全ではないが、それ以上手の打ちようがない。成田からモスクワに立つ前、あれほど行こうか止めようか逡巡したことはなかった。
モスクワを経由して入った平壌は、想像していたよりもきれいな街だった。着いた翌日の朝、一人でホテルから中心街にあるデパートまで歩いてみた。私を見る北朝鮮の人々の「刺すような視線」が体の中まで突き刺さってきた。
少し前に、日本の大手新聞社のカメラマンが、平壌で写真を撮っていて群衆に囲まれ、カメラを壊されたというニュースを読んでいた。とてもカメラを構える勇気はなかった。
街外れの招待所に私一人。ベンツと運転手、通訳がつき、毎朝、平壌大学教授のご進講。終わればオペラや映画見物三昧という待遇は「準国賓待遇」だったようだ。
だが、パスポートはとられ、酒を飲んでも北朝鮮の悪口をいえないというのは、かなりのストレスがたまるものだ。
3週間近くが過ぎたころ、そろそろ帰国したいといったが、なかなかOKが出ない。月末近くになってようやく出国の日が決まった。
言葉がわからない。それなりの地位の人間が出て来るが、一切名刺は出さない。もちろん写真を写してもいけない。一日板門店までクルマで行ったが、その時撮ったはずのフィルムだけが、抜き取られていた。
取材は不十分だったが、平壌という街を自分の目で見られたこと、そこで考えたことは、私の編集者人生の中でも大きな収穫になった。
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)などがある。