敵は外部ではなく、内部にいた
本来、会社の同僚や同じ案件に携わるプロジェクトメンバーは、ともに力を出し合って、より大きな仕事を成し遂げるための運命共同体である。しかし、その共同体のなかで「公開見せしめ」や「追い落とし工作」に躍起になる人もいる。いわば「揚げ足取りやマウンティングのため、あえて仲間のなかに敵をつくる」というおこないだ。業務を進めるうえで、これほど無駄なものはない。
広告代理店にいたころ、とある企業どうしがコラボして新しいブランドを立ち上げるという一大プロジェクトに携わったことがある。また、会社を辞めた後、某新聞社が若者向けの新聞を創刊するということで、準備号からライターとして参画したこともある。
いずれも新規性の高い案件だったので、将来どうなるかは未知数だったが、メディア関係者など社外の人々は「へー、面白そうな企画だね」「ウチの会社でもそういう取り組み、やってみたかったよ」などと前向きに評価してくれる人が非常に多かった。対して、どちらのプロジェクトにおいても、われわれの取り組みに醒めた態度をとる人や、何かと理由を見つけては揶揄する人がいた。彼らの大半は、同じ社内の人間だった。
新しいプロジェクトはとかく、組織内で傍流扱いされる。本流にいる人間からすれば「オレらが稼ぎ出した利益をよくわからないプロジェクトに投じて、好き放題しやがって」と、面白くない感情も抱くだろう。基本的には、木で鼻をくくったような冷淡な態度を取られがちだ。口では「頑張ってね!」などと言っておきながら、内心では「まっ、お手並み拝見」「せいぜい頑張ってよ。半年持たないと思うけど」といったスタンスでいることは、本流の人々と接するとすぐに感じ取ることができた。
失敗を歓迎するかのような醒めたまなざし
さて、2つのプロジェクトの結果だが、正直、大きな成果を挙げたとはいえない。どちらのプロジェクトもわりと短期間で解散になってしまった。
企業コラボ企画が頓挫したとき、関わった人間は残念な思いを抱きつつも、「新しい取り組みができてよかった」「実験的なプロジェクトだったからこそ、やりたいことをいろいろ試すことができた」と前向きに捉えて、経験をこれからの仕事に活かしていこうという姿勢だった。
しかし、プロジェクトが解散になった途端、社内からは「最初から、うまくいくなんて思っていなかった」「予想どおり」など、われわれの取り組みを軽んじ、クサすような声が続々と上がってきた。驚くほど、批判の声ばかりである。なぜ「彼らがこのプロジェクトで得た知見を社内にフィードバックして、今後のコラボ企画の在り方を考えよう」という前向きな発言ができないのか。ここぞとばかりに仲間をつるし上げ、できたばかりの傷に塩を塗り込むような扱いをすることに、一体どんな利点があるのか。
若者向けの新聞は約2カ月で廃刊となってしまった。その際にも「ほれ見たことか」「いまの時代にそぐわないんだよ」などというムードが社内に流れていたように思う。結果的に、同プロジェクトに関与した社員は異動をし、バイトも別の編集部で仕事をすることになった。そして、いずれもそれほど時を経ずして退社してしまった。きっと居心地の悪さもあったのだろう。いまでも当時の関係者と、編集や執筆など制作実務に関する思い出を語り合うことがある。だが、当時の社内での扱いや、他の社員から向けられた醒めたまなざしについては、まるで腫れ物に触るように、積極的に話題にしないのが暗黙の了解のようになっている。