※本稿は、スティーブン・スローマン&フィリップ・ファーンバック『知ってるつもり 無知の科学』(早川書房)の第10章「賢さの定義が変わる」を再編集したものです。
他人の知識を自分のものと思い込む?
ものを考えるという行為は個人の営みだと思われがちだが、実は人間には自分の知識と他者の知識を明確に区別することができない。コミュニティのなかに知識があることを知っているだけで、私たちは自分が知っているような気になってしまうのだ。
例えば、次のような新聞の切り抜きを目にしたとしよう。
この岩石が光を放つメカニズムについて、あなたはどれだけ理解できたと思うだろうか。おそらく、あまりよく理解できなかっただろう。この岩石の話自体、われわれがでっちあげたものなので、聞いたこともなかったはずだし、新聞記事のなかにも理解する手がかりは乏しかった。
記事中に名前の挙がった科学者(リテノア、クラーク、シュウ)が「岩石を完全に解明した」と書かれていなかったら、あなたの感じる理解度は違っただろうか。反対に、科学者が解明できていなかったら、あなたの理解度も低下するだろうか。おそらくそんなことはないだろう。新たな現象に対するあなたの理解度が、他の人々の理解度に左右されるわけがない、と思うかもしれない。
しかし、その直観は誤っているようだ。われわれはある実験で、一部の被験者グループに上の記事を、別のグループには内容は似通っているが、科学者は岩石の発光するメカニズムを解明できていないとする記事を見せた。そしてそれぞれのグループに、光る岩石に対する自分の理解度を評価してもらった。
すると科学者が理解していないときは、被験者も自分の理解度を低く申告した。被験者の自らの理解度に対する評価は、ほかの人々の理解度についての情報に影響を受けていた。科学者がある現象を理解しているという事実を伝えるだけで、被験者自身の理解度の評価も高まったのだ。被験者には、質問しているのは被験者自身の理解度であることを明確に伝えていた。被験者は自分の理解していることと、他の人々の知っていることとを区別できないようだった。