「自分がいなくても会社は困らない」と自覚すること

会社は組織。会社員は汎用性だと彼は力説した。「自分でないとできない」などと勘違いしてはいけない、と。定年の心得も「自分がいなくても会社は困らない」と自覚することだという。それを40年近くかけて学ぶのが会社らしい。

――でも、定年後も働きたいとは思わないんですか?

私がたずねると、彼は首を振った。

「会社勤めはもういいんじゃないですか」

――もういい?

「60になったら早く辞めたいです」

――辞めてどうされるんですか?

「定年になったらこれをやろう、っていうのは別にないですね。それがあったらあったで面白いのかもしれませんがね」

――これまでのキャリアを生かしたようなことをするとか。

「いやあ、自分はホテルに向いてないんじゃないかと思うんですよ」

――向いていない?

今更、何を言っているのか、と私は呆れた。

「『お客様の笑顔を見るのが好き』『ありがとうが何よりのよろこびです』とか、自分も広報的にはそんなことを言っていますが、私、やっぱり『自分がよければそれでいい』っていう人間なんです。これって、向いてない、ってことですよね」

訊かれても困るのだが、察するに、これが彼にとっての「定年」の準備なのだろう。向いていないから自らを過信することもなく勤続でき、自然に去れる。明治の頃、学校教育が「凡人」を育成する「凡人教育」とされていたように、会社もまた「凡人」であることを体得する期間なのかもしれない。

人口統計(『平成28年版高齢社会白書』内閣府)によると、すでに日本の人口の26.7%が65歳以上である。高齢化はますます進行し、2060年には2.5人に1人が65歳以上になるという。「私には定年がない」といっても、いずれまわりは定年後の人たちばかりになるわけで、遅まきながら私も準備することにしよう。

髙橋秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノ スポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『TOKYO外国人裁判』『ゴングまであと30秒』『にせニッポン人探訪記』『素晴らしきラジオ体操』『からくり民主主義』『トラウマの国 ニッポン』『はい、泳げません』『趣味は何ですか?』『おすもうさん』『結論はまた来週』『男は邪魔! 「性差」をめぐる探究』『損したくないニッポン人』『不明解日本語辞典』『やせれば美人』『人生はマナーでできている』『日本男子♂余れるところ』など。
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