他方、「首都高撤去による景観回復」という主張を疑問視する視点もある。

日本橋の首都高を水路から眺める、このアングルを愛する人も。

首都高そのものの美しさを説くのが、高速道路研究家の清水草一氏だ(「乗りものニュース」16年1月10日掲載「空、本当に取り戻すべき? 日本橋と首都高、日本らしいのは」trafficnews.jp/post/47684/)。同氏によれば、首都高を撤去しても、景観は回復しない。というのも、空の下に現れるのは、コンクリートで護岸された日本橋川と地味な石造りの橋にすぎないからだ。それに引きかえ、首都高には、東京オリンピックに向けて東京を改造した「日本人の魂」が込められている。清水氏は首都高をエッフェル塔にたとえる。建設当時、パリの街中に出現した鉄塔は、そのみにくさを批判された。しかし、時と共に街に溶け込み、今ではパリに欠かせない建築物になっている。

清水氏が提案するのは、複雑怪奇な構造を持つ江戸橋ジャンクションを眺めるための遊歩道の整備であり、さらには首都高の世界遺産登録だ。軍艦島や旧八幡製鉄所のように、「世界初の都市高速道路網」として、つまり近代産業遺産として首都高をとらえ返そうというのだ。これは、「機銃掃射をも圧倒するかのように咆哮する自動車は、サモトラケのニケよりも美しい」と書いた詩人F・T・マリネッティの思想に共鳴する観点と言っても良いだろう。

撤去推進派の抱く素朴すぎる「日本橋」イメージ

また、建築史の視点から首都高撤去を批判するのが五十嵐太郎氏である。五十嵐氏は、首都高撤去推進派が抱く日本橋イメージの素朴さを批判する(『美しい都市・醜い都市 現代景観論』中公ラクレ新書)。首都高を撤去すれば景観が回復され、江戸の面影が取り戻されるという意見がある。しかし現在の日本橋は、明治期にヨーロッパの橋を手本に造られた。首都高を撤去しても江戸の面影は戻るはずもなく、むしろ、首都高と共に日本橋川沿いの近代建築が破壊される可能性がある。

こうした理由から、五十嵐氏も清水氏と同様に、首都高が生み出すダイナミックなテクノスケープ、日本橋から江戸橋にかけてのカーブの魅力を強調し(06年7月10日発行/雑誌「10+1」No.43〈リクシル〉掲載「景観は記号ではない」http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/663/)、首都高そのものの美しさに光をあてるのである。