※本稿は、安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)の一部を再編集したものです。
明治維新で経済危機に陥った東京
明治天皇の東幸を受けて東京は天皇のお膝元に生まれ変わったが、太政官をはじめ政府機能が移されたばかりの東京は荒れ野原が目立った。人口が減り続けたことを背景に、極度の経済不況に陥っていたのである。
まったく活気がなく、放置されて荒れ果てた土地も多かった。そうした事実はほとんど知られていないだろう。
維新直後の東京の姿を後世に書き残した女性がいる。近代日本の女性解放運動のシンボルの一人として知られる山川菊栄である。菊栄の母は青山千世といい、安政4年(1857)に水戸藩士で儒学者の青山延寿の娘として水戸城下に生まれた。
明治5年(1872)に父延寿が東京府地誌課長を拝命したことで東京に出てくるが、そのときに見聞きしたことを菊栄が『おんな二代の記』(平凡社東洋文庫)としてまとめる。同書に維新直後の東京の姿が活写されているのだ。
母千世は、はじめてみた東京の姿について次のように語っている。
諸大名や幕臣という「寄生階級」を中心に栄えていた消費都市江戸は、武家制度が亡びると同時に荒れ果て、多くの武家屋敷は解体され、立木、庭石や泉水ばかりが残されている(『おんな二代の記』の記述を要約)。
いみじくも千世が指摘したとおり、かつての大江戸の繁栄は武士階級により支えられていた。なかでも、参勤交代制度により1年ごとの江戸居住が義務づけられた大名と大勢の家臣たちの存在は大きかった。
諸大名の年間経費の半分以上が、江戸屋敷で大名と家臣が生活物資を消費することで消えたからである。
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江戸の消費経済への貢献度は大きかったが、それだけ諸大名の財政には負担となっていた。
そのため、文久2年(1862)に入ると参勤交代制度は緩和される。3年に一度の江戸在府とした上、在府期間も1年から100日に短縮することで諸大名の負担を軽くし、その分軍備を充実させようと目論んだ。