※本稿は、安藤優一郎『教科書には載っていない 維新直後の日本』(彩図社)の一部を再編集したものです。
「文明開化の象徴」鉄道建設計画は徳川時代から始まっていた
黒煙をあげながら疾走する蒸気機関車の姿は、明治の文明開化のシンボルである。錦絵の題材にもなっており、鉄道は新時代の到来を視覚化したといえるが、鉄道が建設されるまでに、政府が幾多もの難題に悩まされていたことは、あまり知られていない。
そもそも、江戸・横浜間の鉄道敷設は、幕府が倒れる直前に決定していた。アメリカ公使館の職員が江戸・横浜間の鉄道建設を申請し、老中の許可を得ていたのである。
江戸には外交関係を取り結んだ西洋諸国の公使館が置かれた一方、開港地となった横浜には領事館が置かれた。横浜には、日本との貿易に従事する貿易商人も大勢居住していた。よって、西洋諸国としては事実上の首都だった江戸と横浜の間を迅速に移動できる鉄道の建設を望んだのである。
そうした要望を踏まえ、アメリカが鉄道建設の免許を受けることに成功した。ところが、その直後に幕府が倒れてしまい、アメリカに与えられた鉄道建設の免許は、無効となってしまう。
その後、イギリス公使のパークスが政府に強く運動し、明治2年(1869)11月にイギリス援助のもと、東京・横浜間の約29キロに鉄道が建設されることが決まる。明治に入ると、外国の商人は東京でも商売ができるようになったため、東京と横浜を結ぶ鉄道への期待がさらに高まっていた。
イギリスが鉄道建設の援助に積極的だった裏には、アメリカへの警戒心があった。アメリカの援助のもと鉄道が建設されてしまえば、日本に対する発言権が強くなるのではないか。そんな懸念があった。日本をめぐりイギリスとアメリカの間では外交戦が繰り広げられていた。
日本にとって最大のネックだった財源は、ロンドンで100万ポンドの公債を募集することで解決への目途が立つ。こうして、順調にスタートしたかに思えた鉄道建設計画だが、最大の問題が残されていた。政府内外の理解を得ることであった。
政府内外から起きたクレームの嵐…
イギリスの支援を受けてスタートした鉄道建設計画だが、政府内では、外国の援助による鉄道建設に懸念の声が強かった。借財が返済できなければ植民地にされてしまうのではという疑念が渦巻いていたからだ。