これを抑え込んだのが、開明派官僚として鳴らした佐賀藩出身の大隈重信や、長州藩出身の伊藤博文である。彼らが強く主張したことで、ひとまず鉄道建設は決まった。

政府の決定を受け、イギリスからエドモンド・モレルが技師長として来日する。イギリスの技術援助のもと、翌3年(1870)3月より線路予定地の測量がはじまった。

だが、作業はスムーズには進まなかった。

鉄道は東海道と並行する形で敷設される予定だったが、東海道沿いに広大な屋敷地を持つ島津家などの諸大名が線路予定地の引き渡しを断固拒否したのである。線路予定地で生計を立てる町人や農民といった地域住民にしても、引き渡し、つまり立ち退きには激しく抵抗した。

さらに、現在の防衛省にあたる兵部省ひょうぶしょうも国防上必要であるとして、線路用地として予定されていた高輪たかなわの同省管轄地所の引き渡しを拒否する。政府内からもクレームが入った形であった。

ここに至り、大隈や伊藤たちは窮余の一策を思い付く。

築堤を造らざるを得なかった

用地買収が暗礁に乗り上げたのは芝から高輪海岸を経て品川に至る約2.7キロの区間だが、海岸から数十メートル離れた沖合に鉄道を敷設することを決める。この方法ならば、土地を買収する必要はない。

海上に築堤ちくていを建造し、その上に線路を敷設して蒸気機関車を走らせようと考えたのだ。海を埋め立てた上に石垣で造られた防波堤を築く計画であり、これが今も残る築堤である。石垣には、ペリー来航を受けて東京湾(江戸湾)に造られた品川御台場の石などが再利用された。

東京と横浜を結ぶ日本初の鉄道の絵
※写真はイメージです(写真=iStock.com/duncan1890)

埋め立てを含む土木工事を担当したのは佐賀藩御用達ごようたし・高島嘉右衛門かえもんと薩摩藩御用達の平野弥十郎やじゅうろうであり、高輪築堤の建造は平野が担当する。平野の手記によれば、品川御殿山の土を馬車で運んで埋め立てなどに使用したという。日本の職人が築いた堤の上に、イギリスから輸入したレールが敷かれたのである。

こうして、明治5年(1872)9月12日に東アジア最初の鉄道が新橋・横浜間で開業する。この日は新暦の10月14日にあたり、これを記念して毎年10月14日が鉄道の日に定められた(『東京百年史第2巻』東京都)。

それから約150年後にあたる令和3年(2021)8月23日、高輪築堤跡が史跡に指定され、現在保存調査が継続されている。