注目が集まる鉄道の裏で激増した人力車

江戸時代まで、移動手段は徒歩にほぼ限られた。水路の場合は船を使わざるを得ないが、陸路の場合は馬や駕籠かごはあったものの、その使用は急用などの場合に限られた。将軍や大名や公家などは例外だが、料金を要する馬や駕籠を使用するのは懐に余裕のある武士や商人だけだった。

明治に入ると、新しい交通手段が登場する。鉄道はその最たるものだが、維新直後は東京・横浜間という限られた路線だったこともあり、乗車する者はさほど多くはなかった。もちろん料金の問題もあったが、人力車となると話は別である。

東京名所 日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図
東京名所 日本橋京橋之間鉄道馬車往復之図(作者=紅栄斎/郵政博物館/PD-Japan/Wikimedia Commons

現在は観光地で見かけることが多い人力車が登場したのは明治3年(1870)3月のこととされるが、翌4年(1871)末には東京府下で1万820りょうの人力車があったという。かつて江戸の町でどれだけの駕籠が稼働していたかはわからないが、その数に比べれば十数倍にも及んだはずだ。

明治9年(1876)には2万5000輌に達し、その急増ぶりには目を見張るものがあった。それだけ人力車は利用された。

庶民にとっては「高嶺の花」

人を車に乗せて引く人力車は日本独自のものとも言われるが、実際のところはフランスに類似する先例があったという。しかし、ヨーロッパに先例があったとしても、日本ほど普及した国は他に例をみない。

幕末に入ると、大八車のような荷車に人を乗せて運ぶ事例が出てくるが、現在も見かけるような椅子に座ったスタイルの人力車が登場するのは明治に入ってからである。明治3年(1870)3月に、和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助のグループが人力車の営業を東京府から許可され、日本橋の高札場前に人力車を置いて営業を開始する。

当初の料金は、日本橋から2キロ弱の両国まで乗って12~13銭。当時の非熟練労働者の日当に近かったとされる。東京・横浜間の汽船の運賃が37銭5厘だったことを踏まえても、庶民にとり高嶺たかねの花であったのは間違いないが、その後人力車の数が急増することで運賃は下落していく。

車夫となったリストラ士族

明治5年(1872)4月、東京府は人力車の運賃を1里つまり4キロにつき6銭2厘と定める。その数が増えたことで、運賃の引き下げも可能になったのだろう。日本橋・両国間の運賃についても3銭ほどに落ち着く。半分以下に下落したことがわかるが、その後も人力車の数は増え続けたため、料金の下落は続く。