数日後、公示された旨の連絡が担当課長から入ったため、翌朝、福沢は代理人を東京府庁に出頭させた。昨日の今日であるため、出願者がいなかったどころか、払い下げを希望する者や地所を記帳する書類なども、東京府側はまだ用意できていなかった。
福沢は先を越されてはたまらないと思い、払い下げに伴う上納金だけは今日受け取って欲しいと嘆願させた。こうして、東京府に上納金を受け取らせることに成功する。仮とはいえ、これで払い下げは成立であった。
後日、地所代価収領の本証書が下り、三田の地は福沢の私有地として確定する。附属する土地と合わせて、1万3000坪余を手に入れることに成功した。代価は500円ほどだが、福沢に言わせると無代価に等しい価格だった。
当時の1円は1両とされており、単純計算すれば現代の価値で約500万円となる。1万坪以上の土地を500万円で得たのであるから、福沢が無代価に等しいと思ったのも無理はない。
持ち主だった島原藩松平家が反撃に出たが…
福沢が払い下げの許可を得ることをこれほどまでに急いだのは理由があった。島原藩松平家がもともとは自分の屋敷だったことを理由に、払い下げを願い出てくるのを危惧したのである。
果たせるかな、福沢の懸念は当たった。その後、松平家が福沢に対して三田中屋敷の譲渡を強く求めてきた。当方にも払い下げを受ける資格があるというのが、松平家の言い分だった。松平家は拝借地払い下げ対象と規定された縁故ある者に他ならない。
廃藩置県により、旧藩主の諸大名は東京在住が義務づけられたため、住居を探さなければならなかったのだ。よって、松平家は三田中屋敷の払い下げを願い出たが、先を越されていたことを知り、直接掛け合ってきたのだ。
しかし、これを予期していた福沢は次のように返答して突っぱねてしまう。
「島原藩の屋敷だったことなど自分は知らない。東京府からの拝借地を払い下げられただけのことであり、この件は東京府に掛け合って欲しい」
松平家も退かず、地所を折半しようとまで申し出てきたが、福沢は取り合わなかった。結局、松平家は諦めてしまい、福沢の粘り勝ちとなる。
維新直後の混乱のなか、現在の慶応義塾三田キャンパスは誕生したことがわかる貴重なエピソードである(『慶応義塾百年史』上巻、慶応義塾)。