欧米列強の脅威に備えさせようとしたわけだが、江戸屋敷の需要に大きく支えられた江戸の消費経済に深刻な影響を与えてしまう。在府期間が短くなれば、それだけ諸大名からの物資や仕事の注文は減らざるを得ない。

江戸屋敷を相手に生計を成り立たせていた商人や職人たちは、たちまち干上がる。いわば倒産や転職、あるいはリストラの嵐が吹き荒れる。

江戸は不景気のどん底に陥り、そのまま幕府の終焉しゅうえんを迎えた。参勤交代制の緩和を機に大名や家臣たちの大半は帰国し、広大な江戸屋敷は放置されていく。彼らが江戸に戻ることはなかったが、その状態が明治に入っても続いたのである。

明治に入ると、そんな大名屋敷の大半は取り上げられる。さらに、政府に仕える意思のない幕臣の屋敷も没収されるが、その管理は行き届かなかった。放置された結果、荒れ果てていく。

こうした状況が克服されるには、廃藩置県を経て中央集権化が進行し、人口が再び増加するときを待たなければならない。だが、千世が見た東京はその段階にはまだ達しておらず、荒廃したままであった。

東京は草原になった

山川菊栄の父延寿も、維新直後の東京を次のとおり書き残している。

旗本屋敷が立ち並んでいた九段坂界隈は住む主を失って麦畑や野菜畑に変じ、雉子きじの声がきこえるばかり。瓦、小石、馬や犬の糞、土くれがうず高く道を埋めていた。新橋界隈まで立ち並んでいた豪勢な大名屋敷にしても今は瓦がおち、練塀ねりべいがはげ、棟は朽ち、青草が茂るばかりだった(『おんな二代の記』の記述を要約)。

当時は管理する者もおらず、放置された状態だったことが改めて確認できるだろう。

江戸の地図
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延寿は山頂から江戸の3分の1が見渡せると喧伝された愛宕山に登っているが、そのときの感想を以下のように述べている。

かつては、人家が見渡す限り立錐りっすいの余地がないほど建て込んだ江戸の町が遠望できたが、今は至るところに草の茂った空地が緑の毛氈もうせんを広げたように見える状態だった。そこへ、ある老人がやってきて辺りを歩きまわり、今昔の感に堪えないかのように、「ああこれではまるで草原だ。いつになったら昔のお江戸の繁昌が見られることかなあ」と語った(『おんな二代の記』の記述を要約)。

大名屋敷や旗本屋敷だけでなく、陸続として続いた民家も取り壊されたものが多かった。江戸の繁栄を知っている者からすると、草原になってしまったと嘆じざるを得なかった。

知られざる明治初年の東京の真実の姿についての貴重な証言である。

明治維新の直後、東京の土地は驚くほど安かった

東京の70%を占めた武家地の大半を没収した明治政府は、広大な大名屋敷を官庁の用地や軍用地などに転用する一方で、幕臣の屋敷を官吏に住居として与えたが、それでもなお余った土地は多かった。