土地があまりに広大で管理が煩わしかったことから、耐え兼ねて政府に返上する事例も相次いだ。ところが、後に需給バランスが逆転すると、地価は一転上昇する。厄介物だった土地は巨大な資産に生まれ変わった(市島謙吉「明治初年の土地問題」『史話明治初年』)。

廃藩置県後、しばらく経過するとようやく社会が安定し、人口は増加傾向に転じる。江戸改め東京が往時の繁栄を取り戻しはじめたのだ。その結果、逆に土地の需要が供給に追いつかなくなり、地価は上昇していく。

政府が没収した土地つまり官有地の払い下げを求める動きも激しさを増した。政商たちなどは払い下げの対象になることから逃げ回っていたが、逆に払い下げを強く求めるようになる。地価の上昇に拍車をかける要因となったのは言うまでもない。

こうして、日本橋に象徴される東京の一等地の地価は再び「土一升、金一升」の状態に戻ったのである。

広大な一等地を格安で手に入れた福沢諭吉

東京では地価の上昇を受け、政府に没収された大名屋敷や幕臣屋敷の争奪戦がはじまる。そうしたなか誕生したのが現在の慶應義塾大学の三田キャンパスであることは、ほとんど知られていないに違いない。

豊前ぶぜん中津なかつ藩の下級藩士の家に生まれた福沢諭吉は江戸に出て、同藩の鉄砲洲てっぽうず中屋敷内に塾を開く。その語学能力が評価されて幕臣に取り立てられたのち、慶応3年(1867)12月にしば新銭座しんせんざの久留米藩有馬家の中屋敷を購入し、住居兼塾舎とした。

この地に塾を移転したのは、翌4年(1868)4月である。時の元号にちなんで塾の名を慶応義塾と名付けたことは有名だろう。

明治4年(1871)3月、慶応義塾は肥前島原藩松平家が三田に持っていた中屋敷に移転する。維新後、この三田中屋敷は政府に没収されたが、政府や東京府にパイプを持つ福沢が拝借したいと運動した結果、前年の11月にその願いが許可された。

この土地が高所にあって湿気が少なく、海浜の眺望がよかったことに目をつけ、新たな住居兼塾舎としようとしたのである。

慶應義塾大学が「東京都港区三田」にあるワケ

福沢の拝借地となった三田中屋敷は、1万1856坪という規模だった。新銭座の時と比べると塾の敷地は30倍にもなった。ただ、拝借地である以上、政府の都合により、いつ取り上げられるかわからなかった。

そんななか、福沢の耳にある情報が入る。東京市中の拝借地を拝借人もしくは縁故ある者に払い下げるとの政府の方針を、事前に知ったのである。廃藩置県後の明治5年(1872)のことだった。

拝借地から私有地への切り替えを秘かに狙っていた福沢は、すぐに行動した。東京府の担当課長の自宅を訪ね、拝借地払い下げの方針が公示されたときはすぐ知らせて欲しいと依頼する。